市街地に向けて、なだらかな裳裾を広げる四王寺山の麓
大伴旅人や 山上憶良や
1300年前のいにしえ人の面影を今に伝える大宰府跡(都府楼跡)は
私たちが暮らしの中で 折に触れて憩い集う このまちのシンボル
激動の時代の幕開け
ここに2葉の写真があります。この地が刻んだ悠久の時の流れに比べて、わずか30年の間のなんと急激な変化でしょうか。
高度経済成長期を迎えた昭和30~40年代、全国で大規模な土地開発が行われました。福岡市にほど近い太宰府町(当時)でも、急激な宅地開発が進み、都府楼跡周辺も、古い面影が急速に失われつつありました。
これは、その頃の大宰府史跡の物語です。
昭和40年代初頭
まだ田園風景が残るものの、四王寺山に団地の造成が始まる。画面左の都府楼跡もまだ今のように整備されておらず、中央に道が一本通っているのが見える。
(写真提供:九州歴史資料館)
平成2年
都府楼跡の周辺まで家が建ち混み-、四王寺山の山裾から住宅地が這い上がるように広がる。
(写真提供:太宰府市教育委員会)
大宰府史跡とその指定
今をさかのぼること1300年、大宰府は律令制下で外交と防衛の中核を担い、大陸文化の窓口として多くの人や文物を受け入れ、西海道諸国をも統括する地方最大の役所でした。今日、その主要な建物の礎石を遺すのみとなっても、他に類を見ない重要な史跡として、大宰府跡(都府楼跡)の名で水城跡・大野城跡とともに、国の特別史跡に指定されています。このほか、筑前国分寺跡、国分瓦窯跡、大宰府学校院跡、観世音寺境内及び子院跡附老司瓦窯跡も国の史跡に指定され、佐賀県にまたがる基肄城も含めて、大宰府史跡と総称されています。
最初に大宰府跡と水城跡が国の指定を受けたのは、大正10年のことでした。当時の「史蹟名称天然記念物保存法」に基づくもので、翌年に筑前国分寺跡・国分瓦窯跡、昭和7年には大野城跡も指定されます。この頃の指定は、遺構の部分だけを中心とする、いわば「点の指定」でした。
昭和25年に制定された「文化財保護法」により、大宰府跡・水城跡・大野城跡は特に貴重であるとして、史跡から特別史跡へと格上げされますが、その範囲が広げられることはありませんでした。しかし研究者の間では、大宰府の全体像を解明するために、史跡を面で捉えた広範囲な指定が必要であるとの意向が高まっていました。
折しも、指定拡張が検討され始めた昭和38年、観世地区に大型宅地開発計画が持ち上がり、各地区で宅地開発が活発化します。四王寺山の中腹にベルト状に住宅街ができ、本来の大野城・大宰府の一体的な景観が分断されてしまうことを懸念した福岡県教育委員会と、文化庁の前身である文化財保護委員会は、学界と協力して史跡の保存に乗り出し、これを機に土地の買い上げと指定区域の大幅な拡張を急ぐようになります。
昭和41年11月、文化財保護委員会は、四王寺山の山腹に連なる大宰府政庁跡の後背地を中心に約120haを新たに史跡とすることを決定しました。旧指定域の10倍に及ぶ、全国でも初めての広域指定でした。しかし、そのほとんどは私有地であり、そこに暮らす人々は、指定を受ければ許可なく家の新築や山林の伐採すらもできなくなることに不安を募らせます。大宰府全域を景観ごと保全し、屈指の史跡を開発の手から守ろうという流れに対して、住民は、区域外の地価の高騰を目の当たりにしながら意のままにできない土地への補償を求めて立ち上がり、町は史跡をめぐる大きなうねりの中に巻き込まれていきました。
当事者となった観世・坂本・国分の3区では、この問題について、従前の指定域12haでさえ指定されたきり買い上げが進んでいないこと、また公有地化しても荒れたまま放置され、風致・美観上も特別史跡の名にふさわしくないこと等から、史跡指定地域をむしろ最小限に縮小し、買い上げと整備を行うことが先決であると訴えます。もともと史跡、ことに都府楼跡周辺は、代々土地の人々の手で大切に守り継がれてきました。地元には「都府楼で木を切るな、穴を掘るな」との言い伝えがあり、日常の暮らしの中で野ぶる草を刈り、互いに入札をして管理費に充て、美化に努めたといいます。史跡は守るべきだが、なぜこのように広い指定が必要なのか。国の指定は名誉としても、施策によって住む人に諸々の制限が加えられる時、「史跡とは誰が、何の目的で、どのように守るべきなのか」という根本的な問いが浮き彫りとなり、太宰府は全国の注目を集めたのです。
大正10年 大宰府政庁跡中門付近より正殿を望む
(写真提供:神社本庁)
昭和40年代初頭 月山側の上空から見た大宰府政庁跡
(写真提供:九州歴史資料館)
発掘調査のはじまり
史跡の「保存」をめぐって激しいせめぎ合いが続く中、昭和43年秋に始まった大宰府政庁跡の発掘調査は、史跡保存の重要性に理解と支持を得る絶好の機会となりました。
調査は、奈良国立文化財研究所(当時)から福岡県教育委員会に迎えられた藤井功氏の熱心な指導のもと、観世・坂本・国分の地元3区から住民も参加して行われました。
発掘調査により、従来の通説を覆す発見が相次ぎ、現場は興奮に包まれます。最大の成果は、政庁の建物が少なくとも2回にわたり建て直されていたこと、つまり3期の区分があると判明したことでした。中央集権的な律令制度が崩壊する中、都から遠く離れた大宰府が、藤原純友の乱で灰燼に帰してなお再建されていたことは、当時の社会構造を知る上で貴重な発見だったのです。
昭和47年に開館した九州歴史資料館は、こうした発掘調査の成果を集約して大宰府研究の中心となるとともに、太宰府に国立博物館を招来する核としての期待も担い、長期的な学術調査の実施に向けた体制が次第に整えられていきました。
昭和43年 大宰府史跡の調査開始(写真提供:九州歴史資料館)
政庁跡中門の調査(写真提供:九州歴史資料館)
小さな史跡から、大きな史跡へ
新聞やテレビ、展覧会などを通じて大宰府史跡の重要性が明らかになると、次第に保存に向けての機運が高まるようになりました。地元と行政の間では、個人の土地を買い上げて公有地とする際の国庫補助の割合や、地権者への税制上の優遇措置などについて、具体的な協議が行われるようになりました。その間にも政庁跡周辺は急速な宅地造成が進んだため、昭和43年、文化財保護委員会に代わって発足した文化庁は危機感を強め、拡大した指定の告示を急ぎます。こうして昭和45年9月21日、特別史跡大宰府跡の追加指定と、大宰府学校院跡、観世音寺境内及び子院跡の新たな史跡への指定が告示されました。 「点の指定」から「面の指定」へ。 拡張決定から4年の歳月が流れていました。
その後、大野城跡では四王寺山全体、また水城跡も順次追加の指定が行われ、やがて大宰府史跡は周辺市町にまたがる一大史跡公園として整備されることになりました。しかし、この指定区域外にも歴史的に重要な地域が確認されており、その保存区域については課題も残しました。
壊され、消えていく遺跡が無数に有る中、大宰府史跡が多くの人の手を経て遺されたことは、どんな意味を持つのでしょうか。広大な史跡が永くコミュニティに支持されていくためには、そこに暮らし、さまざまな制約の中で史跡と共存していく大勢の人々の深い理解を得ることが不可欠です。それは、これまで大切にしてきた ” 近所の史跡 ” に対する愛着を脱し、国民一般の共有財産と読み変えること、つまり土地の人々の大宰府史跡に対する考え方を変えていくことでもありました。拡張決定から告示に至るまでの苦闘の時代はまた、広く史跡に対する関心を喚起し、保存の意味を問いかけた点で、踏み込んだ理解に至るための序章であったと言えましょう。
大宰府史跡の成り立ち
③史跡 観世音寺境内及び
子院跡附老司瓦窯跡(太宰府市)
⑦特別史跡 大野城跡
(太宰府市・宇美町・大野城市)
⑥特別史跡 水城跡
(太宰府市・大野城市・春日市)
(公財)古都大宰府保存協会の誕生と、これから
ここで興味深いのは、研究者も市民も、学術調査を通して刻一刻と明らかになる歴史の謎解きに立ち会い、感動を共有した体験が、今も大宰府史跡の理解のバックボーンになっていることです。そして、新たな知に出会った人々と共に史跡を守り、保存の意味を盛り上げていくこと、それが昭和49年に発足した私どもの前身、「古都大宰府を守る会」の役割でした。以後、昭和55年に開館した大宰府展示館を拠点に、地域の人々と手を携えてさまざまな活動を行い、そこから史跡の解説や整備の担い手が生まれていきました。一方で、政庁跡にたたずむ人が、容易に1300年の時間をさかのぼることができる背景には、景観を守るために自宅の改修や増築にも工夫を凝らす生活者の尽力があります。こうした史跡をとりまく人々の厚みと、活用のためのさまざまな取り組みが、大宰府史跡にさらなる価値を加えてきたと言えましょう。
平成17年10月、地域百年の計であった念願の九州国立博物館が開館し、同22年には九州歴史資料館が小郡市へ移転開館したことにより、太宰府は新たな時代を迎えました。私ども古都大宰府保存協会も、設立から40周年に当たる平成26年に公益財団法人の認定を受けました。古代より文明のクロスロードとして文物が行き交った太宰府に、現在では市内外から市人口の100倍を超える観光客を迎えています。さらに平成27年4月、文化庁は文化財を活用して地域の活性化を図るため、太宰府の「古代日本の『西の都』~東アジアとの交流拠点~」のストーリーを「日本遺産」の一つに認定しました。その中には大宰府史跡の大半が含まれており、私ども(公財)古都大宰府保存協会でも、太宰府を訪れる多くの方に、史跡を支えてきた人々の物語を知って頂きたいと考えています。
平成30年、大宰府史跡は発掘調査の開始から記念すべき50周年を迎えます。この街が、かつて苦悩の中から選んだ史跡保存の道。私たちが慣れ親しんだこの緑豊かな空間が、決して偶然に残ったのではないことを次の世代にも伝えていきたいものです。私たちの暮らしを彩る四季折々の山の風情や木々とともに。そして、いにしえ人の余香とともに。
昭和55年 工事の進む開館間近の大宰府展示館
史跡整備地の維持管理作業
史跡の解説・案内活動
平成26年(公財)古都大宰府保存協会 設立40周年記念式典
関連年表
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