「大宰府」とは、7世紀後半から奈良・平安時代を通じて、西海道(九州)全体を治め、防衛や外交の窓口を担った地方最大の役所のことです。その中核となる施設が置かれた大宰府政庁跡は、東西111.6m、南北211mの規模を誇り、その前面には朱雀大路を中心として碁盤目状の条坊を持つ、古代都市が広がっていました。大宰府は「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれ、律令制下で1000人を超える官人が執務し、多くの文物で賑わいました。
昭和43年に始まった発掘調査によって、最も古い7世紀後半の掘立柱建物(第1期)、8世紀初頭に建て替えられた礎石建物(第2期)、941年藤原純友の乱により焼失した後に再建された建物(第3期)が確認されています。現在は礎石(一部復元)を残すのみですが、北側の四王寺山(大野城跡)と一体となった雄大な景観は、往時のようすを偲ばせます。
「大宰府跡」「大野城跡」は、「水城跡」とともに国の特別史跡に指定されています。