モデルコース

元号「令和」と『万葉集』ゆかりの地・太宰府を歩いてみよう(1時間30分)

大宰府展示館 → 大宰府政庁跡 → 坂本八幡宮

太宰府市の中央に所在する大宰府政庁跡は、古代において九州全体を統括した役所「大宰府」の中心となる建物があった場所です。
本コースは、1300年以上の歴史を誇る国特別史跡・大宰府跡を巡り、大宰府の歴史や文化を堪能するとともに、元号「令和」ゆかりの地として注目された太宰府市の令和・万葉ゆかりのスポットを散策します。

ご紹介しているコースは、ボランティア「大宰府史跡解説員」によるご案内も可能です。
ご希望の方は2週間前までにお申し込みください。お申し込みはこちらまで
  1. 大宰府政庁跡バス停

    特別史跡・大宰府政庁跡の真正面にあるバス停です。
    西鉄ライナーバス「旅人号」、太宰府市コミュニティバス「まほろば号」が停車するアクセスの良いこの場所から「令和」ゆかりの地・太宰府を巡る旅を始めましょう♪

    〔アクセス〕
    ・太宰府ライナーバス「旅人号」(高速直通バス)
     博多バスターミナル(JR博多駅そば)から40分 運賃610円
     福岡空港国際線ターミナルから25分 運賃510円
    ・太宰府市コミュニティバス「まほろば号」
     西鉄都府楼前駅から「内山[竈門神社]行」または「⑤北谷回り」に乗車5分
     運賃100円均一

    ・自家用車ご利用の方
     大宰府政庁跡多目的広場から歩いて1分
    (普通車40台程度・午前8時30分から午後5時30分まで)
    ・観光バスなどでお越しの方
     バス停と道を挟んだ南側にあるバス専用駐車場より歩いて1分
    (大宰府政庁前バス専用 駐車場11台 ※予約制度は現在行っていません)
     ●利用時間   8時から18時
     ●料金について 大型バス 2,000円、マイクロバス 1,300円
     ●詳しくは太宰府市HPをご覧ください
      http://www.city.dazaifu.lg.jp/kanko/event/topics/15246.html

    〔ココに注目!!〕
    太宰府市へお越しになると「宰府」と「宰府」両方の表記があるのにお気づきになる方も多いと思います。
    もともと古代にあった九州を統轄した役所は「宰府」と表していたのですが、のちに「宰府」の表記が増え、混在するようになりました。
    そのため現在では使い分けを行っており、古代律令時代の役所およびその遺跡に関するダザイフは「宰府」、中世以降の地名や天満宮については「宰府」と表記しています。
    大宰府政庁跡バス停には両方の表記がありますが、実はこういう違いがあるのです。

    (※ご紹介しているのは福岡方面・西鉄都府楼前駅から西鉄太宰府駅・太宰府天満宮方面行きバスの乗降場です。逆方向の福岡方面・西鉄都府楼駅前行のバスは、道を渡った反対側、東へ100m程のところにバス停がありますのでご注意ください)
     

  2. 万葉歌碑 大伴旅人
    大宰府政庁跡バス停のすぐそばには万葉歌人であり大宰府の長官・帥(そち/そつ)を務めた大伴旅人(おおとものたびと)が詠んだ歌が刻まれています。
    当時、大宰府では大伴旅人が務めた大宰帥、次に大弐(だいに)、その次が少弐(しょうに)という位の順番でしたが、大宰府におけるNo3大宰少弐であった石川足人(いしかわのたるひと)が詠んだ歌に旅人が応えたものです。
    石川足人が、ここ大宰府へ赴任したばかりの旅人に、奈良の都の大伴家邸宅があった地、佐保の山辺を心にかけておられますか。と歌で詠んだのに対し、

    やすみしし 我が大君の 食す国は 大和もここも 同じとそ思ふ 大伴旅人
    我が大君が治められる国は、大和でもここでも同じだと思う。
    (万葉集 巻六―九五六)
    と応えたものです。
    奈良の都から大宰府へと赴任してきた旅人の想いや心境を表した歌として知られています。
    大宰府政庁跡バス停に降り立ちましたら、ぜひ大伴旅人になった気持ちでこの歌碑をご覧いただきたいと思います。
  3. 万葉歌碑 小野老
    大宰府政庁跡バス停から大宰府展示館へ向かって歩くと、小野老(おののおゆ)が詠んだ歌を刻んだ歌碑があります。
    小野老は今から約1300年前の奈良時代に活躍した貴族で、大宰府にはNo3である大宰少弐として都から赴任しました。
    歌人としても優れた方で、大宰府の地で詠んだ歌が幾つも『万葉集』に収められています。
    そんな小野老が大宰府の役人たちに都の様子を聞かれて答えた歌が、

    あをによし 奈良の都は 咲く花の 薫(にほ)ふがごとく 今盛りなり
    (あをによし)奈良の都は咲く花の美しく薫るように、今がまっ盛りである。

    です。
    歌碑の文字は万葉集研究の大家である犬養孝先生によるものですので、歌と共に石碑も是非じっくりご覧ください。
  4. 令和記念モニュメント
    大宰府展示館に西側に元号「令和」ゆかりの地を表す記念モニュメントがあります。
    太宰府市が「『令和』記念『時の旅人プロジェクト』~時空を超えて1300年」として建立したもので、2019年11月4日に除幕式が行われました。
    モニュメントはチタン製で、表面には「令和」の典拠となった『万葉集』梅花の歌三十二首の序文が、裏面にはふるさと納税などを通じて協力した方々のお名前が刻まれています。
  5. 大宰府展示館
    大宰府展示館では昭和55年の開館以来、発掘調査で見つかった出土資料をはじめ、パネルやジオラマなどの展示を通じて古都大宰府の歴史を分かりやすくご紹介しています。
    館内では様々な展示資料と共に、昭和43年に始まった大宰府政庁跡の発掘調査により検出された玉石敷の溝と素掘りの溝を保存・公開しており、1300年前の姿を直接ご覧いただけます。
    また、元号「令和」ゆかりの行事として注目を浴びた「梅花の宴」(ばいかのえん)についても、博多人形で再現したジオラマを中心として「令和」と「太宰府」の関りについてご紹介しています。
    太宰府観光や歴史散策、学校の社会科学習の起点として是非ご利用ください。

    大宰府展示館 入館料
    ・一般200円 大学生・高校生100円 中学生以下無料
    ※障害者手帳をご提示いただきますと、ご本人様と介護者1名様は無料でご入館いただけます。ご来館時に受付にてご提示ください。
  6. 博多人形による「梅花の宴」再現ジオラマ
    博多人形による「梅花の宴」再現ジオラマ 
    人形制作 山村延燁(やまむらのぶあき)
    公益財団法人古都大宰府保存協会 所蔵

    天平2(730)年の正月13日、大宰帥・大伴旅人は自身の邸宅にて梅の花を題材とした歌会を開催しました。
    大宰府展示館で展示している本模型は、その様子を博多人形で再現したものです。
    歌会には筑前守・山上憶良をはじめ、大宰府の官人たちや管内九国三島の国司たち32人が集い、中国から渡来した高貴な花であった梅の花を題材として歌を詠み交わしたことから「梅花の宴」(ばいかのえん)と呼ばれています。
    詠まれた32首の歌は『万葉集』に収められており、後に「万葉筑紫歌壇」とも称された華やかな万葉文化が、この大宰府の地に花開くこととなりました。
    元号「令和」は、この「梅花の宴」で詠まれた32首の歌の冒頭にある文章・序文の一節、

    初春の月、気淑しく風ぐ。梅は鏡前の粉に披き、蘭は珮後の香に薫る。

    が典拠となりました。
    博多人形で再現された華やかな宴の様子を是非ご覧ください。
  7. 月山東地区官衙跡

    大宰府展示館の隣に位置する月山東地区官衙跡(つきやまひがしちくかんがあと)では発掘調査によって建物跡が確認されています。
    発掘調査では東西に約110m、南北に約70mの規模で柵の跡が見つかりました。この柵に囲まれるように、内部では9つの掘立柱建物跡も確認されています。
    一帯に立つ数多くのコンクリート柱は調査で見つかった柱の跡を再現しており、細長く背が高いものは柵の柱を、背が低く太いものは建物の柱を表しています。

    古代に西海道(九州全体)を統括した大宰府には19の役所があったことが確認されていますが、月山東地区もそのような実務的な役割を担った官衙(役所)があった場所の1つと考えられています。
    一方、大宰府政庁に隣接する大変大きな区画であることや特別な玉石敷の溝(たまいしじきのみぞ)が隣接していることから、この一帯が「梅花の宴」が行われた大宰府の長官・大伴旅人の邸宅であるという説もあります。
    ※奇麗に石が敷き詰められ、儀式や行事などに用いられたと考えられる玉石敷の溝は大宰府展示館内に当時そのままの姿で保存・公開されていますので、あわせて是非ご覧ください。

  8. 大宰府政庁跡
    かつてこの地には、7世紀後半から12世紀前半にかけて地方最大の役所「大宰府」が置かれ、西海道(九州一帯)の統治、対外交流の窓口、軍事防衛の拠点という重要な役割を担っていました。
    なかでも政庁は大宰府の中心部で重要な儀式などに使われた建物です。
    正面中央には南門があり、次の中門を入ると回廊で囲まれた広場があり、中心部に正殿、正殿北側に後殿、広場の東西に脇殿が2棟ずつ建ち並ぶ配置となっていました。
    これまでの発掘調査の成果により、大宰府政庁は8世紀前半に奈良の平城京を模した朝堂院形式の礎石建物に整備されるなど、3回の建て替えが判明しています。
    ■政庁第Ⅰ期 7世紀後半~8世紀第1四半期
    ■政庁第Ⅱ期 8世紀第1四半期~10世紀前半
    ■政庁第Ⅲ期 10世紀後半~12世紀前半
    往時の建物の様子は、100分の1スケールの再現模型が大宰府展示館に展示されていますので、是非そちらもご覧ください。
  9. 大宰府政庁 正殿跡の三基の石碑
    かつて地方最大の役所「大宰府」が置かれた大宰府政庁跡でしたが、江戸時代から明治時代にかけて礎石の抜き取りや荒廃などが進みました。
    そのような中、明治4(1871)年、明治13(1880)年、大正3(1914)年と相次いで政庁跡に「大宰府」を顕彰する石碑が建立されました。
    現在も残るこれら3基の石碑は、地元の人々による「大宰府」保護への願いの顕れとして注目すべき文化遺産です。

    ■向かって中央 都督府古趾碑 明治4(1871)年
     筑前国御笠郡乙金村(現福岡県大野城市)出身の大庄屋高原善七郎美徳が自費で建立。
    ■向かって左側 太宰府址碑  明治13年(1880)年
     御笠郡の有志によって建立されたもので、字は書家の日下部鳴鶴(くさかべめいかく)によるものです。
    ■向かって右側 太宰府碑   大正3(1914)年
     寛政元(1789)年に福岡藩の命により亀井南冥が撰文しましたが、碑文の一部が体制批判であるとされ、建立は中止されました。
     門下生などの尽力により、南冥没後100年の大正3(1914)年に建立されました。
  10. 万葉歌碑 大伴旅人
    坂本八幡宮から東側へ少し離れた場所に大伴旅人が詠んだ歌を刻んだ万葉歌碑があります。
    旅人が大宰府に来たのは63歳頃といわれており、当時の人としては晩年でした。
    都からは家族も共に来て旅人を支えてくれていましたが、728年に妻が大宰府の地で亡くなります。
    その悲しみは大変深かったようで、旅人自身が妻を亡くした悲しみを詠んだ歌がいくつも残っています。
    万葉歌碑には、

    世間は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり
    世の中はむなしいものだとつくづく知る時、いよいよますます悲哀の感を新たにすることだ
    大伴旅人(万葉集 巻五-七九三)
    の歌が刻まれており、妻だけでなく都からも訃報が重なった心境を詠んだもので、旅人の悲しみの度合いがうかがえます。
    深い悲しみの日々を送る旅人を慰めるため山上憶良らが歌をいくつも送ったりしますが、幾日か日々を過ごしていく中でもふと悲しさに思いふけることも多かったようです。
  11. 坂本八幡宮
    坂本地区の土地神・産土神として、地域の方々によって大切に祀られている神社で祭神は応神天皇です。
    はっきりとした由緒は分かっていませんが、『福岡県神社誌』には「天文・弘治年間の頃勧請」とあり、現在の八幡宮のかたちが整ったのは戦国時代頃のようです。
    現在も坂本地区の方々や氏子会の方々によって、神戻しや宮座など様々な神事が行われています。
    また、坂本八幡宮が鎮座する一帯は戦後の大宰府研究の中で、大伴旅人など大宰府の長官が住んだ邸宅があった候補地の1つとされてきました。
    地元の方々によって、周辺には旅人が愛した梅の木が数多く植えられ、神社境内には旅人ゆかりの万葉歌碑が建立されています。

    わが岡にさ男鹿来鳴く初萩の花嬬問ひに来鳴くさ男鹿
    私の住む岡に牡鹿が来て鳴いている。今年初めての萩の花が咲き、牡鹿がやってきて妻問いをしていることよ。
    大伴旅人(万葉集 巻八ー一五四一)

    さらに、元号「令和」の典拠が大伴旅人の邸宅で行われた「梅花の宴」であったことから、2019年4月1日の発表以降、ゆかりの地に鎮座する神社ということで日本各地から多くの方々が参拝に訪れています。
    境内には、菅官房長官が「令和」発表時に掲げた文字を揮毫された茂住修身(号・菁邨〔せいそん〕)氏による令和碑が建立されていますので、是非ご覧ください。
     
  12. 万葉歌碑 紀男人
    大宰府政庁跡と坂本八幡宮を結ぶ道のかたわらに背の高い万葉歌碑があります。
    歌碑には天平2年(730)正月に行われた「梅花の宴」において、参加者32人のうち一番最初に大弐紀卿(紀男人)が詠んだ歌が刻まれています。

    正月立ち 春の来たらば  かくしこそ 梅を招きつつ 楽しき終へめ
    正月になり春が来たら、こうして梅を招きながら、歓楽を尽くそう
    大弐紀卿(万葉集 巻五-八一五)

    まさに梅の花を題材とした歌会のはじまりに相応しい歌として知られています。
  13. 蔵司地区
    古代の大宰府にあった役所の1つ「蔵司」は九州各地からの税物の出納や大宰府の財政を管理した役所でした。
    大宰府政庁跡の西側にある丘陵は「くらつかさ」と呼ばれており、建物の柱の土台となる礎石も数多く残っていたことから、この場所に役所「蔵司」があったと考えられています。
    蔵司地区南側には、発掘調査で確認された築地塀が生垣で再現されていますので、是非ご覧ください。
    (※蔵司地区中心部は現在も九州歴史資料館による発掘調査が行われており、自由な一般見学はできませんので現地説明会などの機会をご利用下さい)
  14. 大宰府政庁跡 広場
    大宰府政庁跡の正面広場には、史跡を一望できるビューポイントが太宰府市によって設置されています。
    広場の地面にタイルで表示されていますので、大宰府政庁跡を訪れた記念撮影などの際には是非ご利用ください。