モデルコース

古代大宰府の中心地・大宰府政庁跡めぐり(1時間)

大宰府展示館 → 大宰府政庁跡

太宰府天満宮や九州国立博物館などが所在する歴史と緑豊かな太宰府市には毎年多くの方々にお越し頂いています。
この太宰府市の地名の由来であり、太宰府の歴史の中心となったのが大宰府政庁跡です。
本コースは、古代において九州全体を統括した役所「大宰府」の中心として多くの人々で賑わった大宰府政庁跡をめぐり、皆様に大宰府の歴史や文化に触れていただくコースです。

ご紹介しているコースは、ボランティア「大宰府史跡解説員」によるご案内も可能です。
ご希望の方は2週間前までにお申し込みください。お申し込みはこちらまで
  1. 大宰府展示館

    大宰府展示館では昭和55年の開館以来、発掘調査で見つかった出土資料をはじめ、パネルやジオラマなどの展示を通じて古都大宰府の歴史を分かりやすくご紹介しています。
    館内では様々な展示資料と共に、昭和43年に始まった大宰府政庁跡の発掘調査により検出された玉石敷の溝と素掘りの溝を保存・公開しており、1300年前の姿を直接ご覧いただけます。
    また、元号「令和」ゆかりの行事として注目を浴びた「梅花の宴」(ばいかのえん)についても、博多人形で再現したジオラマを中心として「令和」と「太宰府」の関りについてご紹介しています。
    太宰府観光や歴史散策、学校の社会科学習の起点として是非ご利用ください。

    大宰府展示館 入館料
    ・一般200円 大学生・高校生100円 中学生以下無料
    ※障害者手帳をご提示いただきますと、ご本人様と介護者1名様は無料でご入館いただけます。ご来館時に受付にてご提示ください。

    〔アクセス〕
    ・バスご利用の方
     大宰府政庁跡バス停より徒歩1分
    ◆太宰府ライナーバス「旅人号」(高速直通バス)
     博多バスターミナル(JR博多駅そば)から40分 運賃610円
     福岡空港国際線ターミナルから25分 運賃510円
    ◆太宰府市コミュニティバス「まほろば号」
     西鉄都府楼前駅から「内山[竈門神社]行」または「⑤北谷回り」に乗車5分
     運賃100円均一

    ・自家用車ご利用の方
     大宰府政庁跡多目的広場から歩いて3分
    (普通車40台程度・午前8時30分から午後5時30分まで)

    ・観光バスなどでお越しの方
     バス停と道を挟んだ南側にあるバス専用駐車場より歩いて3分
    (大宰府政庁前バス専用 駐車場11台 ※予約制度は現在行っていません)
     ●利用時間   8時から18時
     ●料金について 大型バス 2,000円、マイクロバス 1,300円
     ●詳しくは太宰府市HPをご覧ください
      http://www.city.dazaifu.lg.jp/kanko/event/topics/15246.html

  2. 博多人形による「梅花の宴」再現ジオラマ
    博多人形による「梅花の宴」再現ジオラマ 
    人形制作 山村延燁(やまむらのぶあき)
    公益財団法人古都大宰府保存協会 所蔵

    天平2(730)年の正月13日、大宰帥・大伴旅人は自身の邸宅にて梅の花を題材とした歌会を開催しました。
    大宰府展示館で展示している本模型は、その様子を博多人形で再現したものです。
    歌会には筑前守・山上憶良をはじめ、大宰府の官人たちや管内九国三島の国司たち32人が集い、中国から渡来した高貴な花であった梅の花を題材として歌を詠み交わしたことから「梅花の宴」(ばいかのえん)と呼ばれています。
    詠まれた32首の歌は『万葉集』に収められており、後に「万葉筑紫歌壇」とも称された華やかな万葉文化が、この大宰府の地に花開くこととなりました。
    元号「令和」は、この「梅花の宴」で詠まれた32首の歌の冒頭にある文章・序文の一節、

    初春の月、気淑しく風ぐ。梅は鏡前の粉に披き、蘭は珮後の香に薫る。

    が典拠となりました。
    博多人形で再現された華やかな宴の様子を是非ご覧ください。
  3. 大宰府政庁跡 
    かつてこの地には、7世紀後半から12世紀前半にかけて地方最大の役所「大宰府」が置かれ、西海道(九州一帯)の統治、対外交流の窓口、軍事防衛の拠点という重要な役割を担っていました。
    なかでも政庁は大宰府の中心部で重要な儀式などに使われた建物です。
    正面中央には南門があり、次の中門を入ると回廊で囲まれた広場があり、中心部に正殿、正殿北側に後殿、広場の東西に脇殿が2棟ずつ建ち並ぶ配置となっていました。
    これまでの発掘調査の成果により、大宰府政庁は8世紀前半に奈良の平城京を模した朝堂院形式の礎石建物に整備されるなど、3回の建て替えが判明しています。
    ■政庁第Ⅰ期 7世紀後半~8世紀第1四半期
    ■政庁第Ⅱ期 8世紀第1四半期~10世紀前半
    ■政庁第Ⅲ期 10世紀後半~12世紀前半


     
  4. 大宰府政庁 南門跡
    大宰府政庁の南端には正面玄関となる南門がありました。
    政庁の最後の姿である第Ⅲ期(10世紀後半~12世紀前半)の時の南門は、幅21m、奥行き8.1mの規模がありました。
    南門は一段高く造られた土台(基壇:きだん)に建てられており、基壇には3つの階段が設けられていました。現在も大宰府政庁跡を訪れると整備・復元した階段が設けられています。
    南門跡には建物の柱の土台となった礎石(そせき)があり、それから推定した南門の柱は直径70cmもの太さだったようです。
    礎石に立つ朱塗りの柱を再現したものが大宰府展示館にありますので、往時をイメージする際の参考にして頂ければと思います。

    大宰府展示館南側で展示されている「大宰府政庁の礎石と朱塗りの柱」再現資料
  5. 大宰府政庁 中門跡
    古代の大宰府政庁では、正面玄関の南門をくぐると30mほどのところに次の門・中門がありました。
    政庁の最後の姿である第Ⅲ期(10世紀後半~12世紀前半)の時の中門は、幅13.5m、奥行き7.2mの規模がありました。
    中門も土台(基壇:きだん)に建てられており、基壇の表面には玉石が敷かれていました。
    現在、中門の跡も整備され礎石が残されています。
  6. 大宰府政庁 回廊跡
    古代の大宰府政庁では、中門から屋根のついた廊下(回廊:かいろう)が左右に延びて、中央の広場や脇殿(わきでん)をぐるりと回り、中心である正殿まで繋がっていました。
    現在、回廊の跡はアスファルト舗装されて散策路となっており、屋根の柱を支えた礎石が復元されています。
  7. 大宰府政庁 正殿跡
    大宰府政庁跡を訪れると大きな三基の石碑が目を引きますが、これらの石碑が建つ場所が大宰府政庁の中心であった正殿跡です。
    正殿跡には建物の柱を支えた36個の礎石が残りますが、これらは全て往時の大宰府政庁で実際に使われていた石です。
    今も残る礎石とこれまでに行われた発掘調査の成果から、往時の政庁は正面幅が28.5m、奥行き13.3mほどの規模の建物だったことが分かりました。
    また、正殿は凝灰岩の切石が並べられた高さ1.5mほどの基壇の上に建てられており、正殿はまさに大宰府の中心としての姿を人々に見せていました。
  8. 大宰府政庁 正殿跡の三基の石碑
    かつて地方最大の役所「大宰府」が置かれた大宰府政庁跡でしたが、江戸時代から明治時代にかけて礎石の抜き取りや荒廃などが進みました。
    そのような中、明治4(1871)年、明治13(1880)年、大正3(1914)年と相次いで政庁跡に「大宰府」を顕彰する石碑が建立されました。
    現在も残るこれら3基の石碑は、地元の人々による「大宰府」保護への願いの顕れとして注目すべき文化遺産です。

    ■向かって中央 都督府古趾碑 明治4(1871)年
     筑前国御笠郡乙金村(現福岡県大野城市)出身の大庄屋高原善七郎美徳が自費で建立。
    ■向かって左側 太宰府址碑  明治13年(1880)年
     御笠郡の有志によって建立されたもので、字は書家の日下部鳴鶴(くさかべめいかく)によるものです。
    ■向かって右側 太宰府碑   大正3(1914)年
     寛政元(1789)年に福岡藩の命により亀井南冥が撰文しましたが、碑文の一部が体制批判であるとされ、建立は中止されました。
     門下生などの尽力により、南冥没後100年の大正3(1914)年に建立されました。