古都大宰府保存協会設立50周年記念
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◎第7講 令和5年10月18日(水)

「古代大宰府の宗教世界」
     講師・回答:森 弘子先生(大宰府アカデミー・令和編副学長、福岡県文化財保護審議会会長)
鎮護国家の時代、日本と新羅は互いに調伏を目的として、呪詛が行われたのことですが、国交はなかったのでしょうか?また互いの国の情報はどのように入手していたのでしょうか?
 まず、お尋ねの日本・新羅の国交という点です。それが両国の公的使節の往来ということであれば、それは新羅からは遣日使(日本側の史料では新羅使)が、日本からは遣新羅使が任命・派遣されていますので、国交はあったといえるでしょう。こうした往来や、また遣唐使、遣渤海使の派遣などによって情報を入手していたと考えられます。
 ただし外交交渉のなかでは、日本と新羅との間にはさまざまな軋轢が生じています。日本は、その際に交わされる新羅からの国書や口頭による報告などに、従来の通例によらず、無礼な点があるとしばしば指摘しており、天平宝字年間(757~765)には、藤原仲麻呂政権による新羅征討計画もあらわれてくるのです(この計画は、仲麻呂の失脚によって実現はしませんでした)。新羅からの公的使節は宝亀10年(779)の来航が、結果的には最後になります。
 そうした過程のなかで、講座で紹介した宝亀5年(774)の四王寺山における新羅呪詛に対抗する仏像造立・寺院建立ということがみられるのです。平安時代前期までは朝鮮式山城としての大野城と、四王寺の記録とが並行してあらわれますが、それ以降は四王寺(あるいは四王院)のそれが主となります。こうした点を考えると、講座でも申しましたように、宗教的な場としての四王寺山がもっと注目されるべきだと考えているのです。
香椎宮では、仲哀天皇が亡くなったということから、仲哀天皇の廟という性格があるのでしょうか?
 『筑前国風土記』逸文には、(大宰府の官人などが)筑紫国に赴任すれば、まず香椎宮に参謁するのが例とされており、中央政府にとってもきわめて重要な場所であったことが知られます。同宮の縁起である『香椎宮編年記』には神亀元年(728)の創建と記されますが、確実な初見例は同5年11月に大宰帥大伴旅人・大弐小野老・豊前守宇努男人らが参拝した記事(『万葉集』巻6)なのです。
 祭神は仲哀天皇、神功皇后です。ご指摘のように、仲哀天皇が香椎宮で亡くなったという伝承(『日本書紀』仲哀天皇紀、『古事記』仲哀天皇段)があり、古くから香椎宮を仲哀天皇の廟とする説もありましたが、その後のさまざまな研究を承けて、現在、学界においては神功皇后の廟とする説が定説になっています。
 もちろん、神功皇后は実在の人物ではありませんが、おそらくは、この地における長い間の半島との緊張関係の記憶、またそのような中から生まれた伝説などから、新羅に対する勝利の女神として創出されたものと考えられます。香椎宮の地は、磐井の乱の後、息子の葛子が献上した粕屋屯倉の地で、磐井が新羅との交流をするための港だったという考え方もあり、そのような重要な場所であったからこそ、ここに中央政府によって新羅に対抗するための香椎宮(香椎廟)が建てられ、そしてそのことには、内政的な意味もあったのではないかと考えています。
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◎第6講 令和5年9月20日(水)

「大宰府の出土文字資料」
     講師・回答:酒井 芳司氏(九州歴史資料館参事補佐、学芸員)
前回(第5講)の佐藤信先生のお話の中で、大宰府から平城京へ向けて送られた木簡は(敢えて)広葉樹の材を使用していたとのことでした。酒井先生はその理由をどのようにお考えでしょうか。
たしかに、都で出土する西海道諸国からの木簡には、ほぼすべてに広葉樹が用いられています。これらは諸国でではなく、大宰府で作成されたものと考えられます。一方、西海道諸国から大宰府に送られた木簡には、ほぼ例外なく針葉樹が用いられています。つまり、九州で作成された木簡に、広く広葉樹が用いられていたわけではなく、広葉樹の木簡は、大宰府から京進されるもののためのみに作成されたのです。
さて、その理由については、ほかに類例もないことからよく分かりません。ただ、広葉樹は針葉樹に比べて堅牢なことから、製作・加工が難しいかわりに、繊細、丁寧な文字を書くことができます。つまり、そうした木簡を作るために敢えて広葉樹を用いたと考えられます。
私は、平城宮跡から出土した大宰府からの木簡のなかに「筑紫大宰進上……」と記されたものがあることに注目しています。この「筑紫大宰」とは「大宰府」の前身に当たる古い表記で、そこに大宰府、あるいは筑紫大宰が、京に進上することに特別な意味をもたせていたのではないか、そのためにわざわざ広葉樹の木簡を用いたのではないか、と考えています。
今回の講座では、木簡などの出土文字資料を中心に興味深いお話しを伺うことができました。そこで質問ですが、そもそも日本人が漢字を使うようになったのはおおよそいつ頃からのことでしょうか。
 これもはっきりした年代を示すことは難しいのですが、次のように考えられています。
日本列島における漢字の使用例は、早くは志賀島で出土した金印「漢委奴国王」がありますが、これは当時の日本人が漢字を使ったものではなく、西暦57年に、後漢の光武帝から贈られたものがこれに当たると考えられています。
 漢字と漢文体、また固有名詞には音訳を用いて、まとまった文章を綴ったものとしては稲荷山古墳出土鉄剣銘があり、これにみえる「辛亥年」は西暦471年と考えられており、こうした形を日本列島における漢字使用の始まりと位置づけてよければ、それはおおよそ5世紀ということになります。
 こうしたなかで、その書写材料として木簡が用いられることになるわけです。現在のところ、木簡の確実な使用例としては七世紀以後のものしか確認されていませんが、私は講座の中でも申し上げましたように、日本書紀の記事などから6世紀半ばからではないかと考えています。
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◎第5講 令和5年8月16日(水)

「大宰府機構の成立とその変遷」
講師・回答:佐藤 信氏(東京大学名誉教授、くまもと文学・歴史館館長、横浜市歴史博物館館長)
講座の中で、先生は平城京における「調邸」の存在を手がかりに、大宰府における管内諸国の出張所の存在を推定されていましたが、もう少し具体的に教えてください。
調邸というのは、諸国から運んできた調物を都、またはその周辺で一時的に保管するための施設と考えられ、講座のなかでも申しましたように、いわば各国の都における出張所のようなものです。大宰府の場合、管内諸国の調物は、他の諸国とは違って京進されずに大宰府へと集積され、その一部が大宰府から都へと送られたことが知られています。とすれば、確実な史料はありませんが、管内諸国の調邸は、大宰府、ないしその周辺に置かれた可能性が想定できると思います。講座の中では、『万葉集』にみえる、帥大伴旅人邸で催された梅花の宴に参列した管内諸国官人の中に、こうした調邸に詰めていた人物が含まれているのではないかと推測してみたのです。
講座の中で、古代の役所における給食機能についてふれておられましたが、そうした給食のための施設は発掘調査などで具体的にわかっているのでしょうか。大宰府ではどのあたりにあったかわかりますか。
古代において、こうした給食機能を担った施設、すなわち台所にあたる施設は「厨(くりや)」と呼ばれています。その実際の姿はなかなかつかめませんが、都では平城宮東院地区の発掘調査で井戸や複数の竈痕跡など、この「厨」に関連する可能性の高い遺構が見つかっています。しかし、残念ながら大宰府ではこうした遺構はまだ見つかっていませんが、西鉄二日市駅に隣接する「特別史跡大宰府跡客館地区(客館跡)」は、主に新羅から来航した外交施設の安置・供給に使われたと考えられています。その客館敷地内の北西部では、国際色豊かな高級食器類、容器類などが出土し、また井戸も数基まとまって確認されることから、給食や給仕に関係するエリアと推定されています。講座でも申しましたように、この場所では養老職員令大宰府条にその名がみえる「主厨」が、その給食に関わっていたのであろうと想像できます。
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◎第4講 令和5年7月19日(水)

「朝鮮式山城~水城・大野城・基肄城・鞠智城~」
講師・回答:赤司 善彦氏(大野城心のふるさと館館長)
赤司先生が講座で述べられたように大野城・基肄城の築城が650年から着手されたとすると、その目的、また契機は何でしょうか。
 『日本書紀』白雉二年(651)条に新羅が唐の礼服の制度など各種の唐風化を推進したことで、新羅使の来朝の折に、唐服を着用していたことを詰問し追い返したと記しています。続けてここで新羅を懲らしめるために難波津から筑紫の海に船をいっぱいに浮かべて新羅を呼びつけることを提案しています。
 たんに唐風化した新羅を責めたのではなく、唐が朝鮮半島の争いに介入することを阻止しようとしたとする見方もあります。この記事をもって実際に軍事プレゼンスに及んだとは思えませんが、新羅を仮想敵国と位置づけてその対抗措置として山城を築城し軍事拠点を形成したと考えられないでしょうか。
 またたとえば、640年代後半の渟足柵・磐船柵造営という東北地域における軍事的な動向との連動ということも考えられるのではないかと思います。このことは、唐の東アジア遠征を受けたものともされていますから、それが南方でもあったのではないか、とみるのです。つまり、ここでも前述した唐による朝鮮半島への介入という対外的な危機を受け止めたということもあるのかもしれません。
いずれにしても確定的とは言えず、今後の研究によって深めていかなければならない点だと思います。
古代山城の倉庫群のお話がありましたが、築城当初には倉庫群は想定されておらず、軍事的な機能をもった山城から備蓄基地へと変わったことで、倉庫群が建てられたのでしょうか。
 講座の中でも申し上げましたが、山城、特に筑紫城(大野城・基肄城・鞠智城)の中の建物については、その移り変わりを、私は次のように考えています。つまり築城直後の七世紀末に、長倉という大規模な倉庫が建造されます。その後奈良時代になると、三間×五間の礎石高床倉庫の造営があり、さらに九世紀以降、三間×四間のやや小規模な倉庫が建造されていきます。しかもこれは建替ではなく、増築されているのです。これは、主に大野城の場合ですが、基肄城も奈良時代はほぼ同じ動きで、鞠智城はやや様相が異なりますが、ほぼ同じように倉庫群の造営・拡張が行われています。
 この整理によれば、倉庫群は築城当初から設けられていたとみなければならないでしょう。そして、それは軍事的な兵站機能をもっていたと考えられます。畿内・瀬戸内海沿岸の山城が停廃されていく中、八世紀以降も存続した筑紫城(大野城・基肄城・鞠智城)は、そうした兵站機能を維持しつつ、その主要な役割を、行政的な地方支配に関わるとみられる備蓄機能へと変化させていったものと考えています。
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◎第3講 令和5年6月21日(水)

「白村江戦」
講師・回答:森 公章氏(東洋大学教授)
磐瀬(行)宮・長津宮、朝倉橘広庭宮の所在地について
 斉明天皇が征西のために筑紫に下った際に留まったとされる磐瀬(行)宮・長津宮の所在地はどこだと考えられていますか。また朝倉橘広庭宮はどこでしょうか。
 磐瀬(行)宮・長津宮について、『日本書紀』によれば、斉明天皇一行は「娜大津」(博多)に着くと、まず「磐瀬行宮」に入ったとされ、斉明天皇はその名を「長津」と改めたとみえますから、この「磐瀬(行)宮」は、その後の『日本書紀』に登場する「長津宮」と同じ場所だと考えられます。この宮については、現在までのところ、その遺跡は発見されていませんが、その地名などから現在の西日本鉄道福岡天神大牟田線の高宮駅西側丘陵裾部に比定する説があります。
 朝倉橘広庭宮は、古くはこれを土佐国に比定する説などもありました。近年では、現在の大宰府政庁の場所(発掘調査により検出された政庁Ⅰ-1期)と考える説が呈されています。また地名の観点から、これを現在の朝倉地域に求める説も古くからあります。『日本書紀』によると「朝倉社」(麻底良山山頂に鎮座する麻氐良布神社と考えられています)の近くに所在したと推定されることから、その候補地として朝倉市須川(旧朝倉町大字須川)、同市山田(旧朝倉町大字山田)、同市杷木志波(旧杷木町志波)の三地区があげられていましたが、1990年代の九州横断道建設の際の発掘調査により、志波地区から大規模建物跡群が発見され、これらが朝倉橘広庭宮に関係する遺跡ではないか、とされ、朝倉地区の中では、この志波地区がもっとも有力と考えられています。
倭国船の構造について
 白村江戦に出陣した倭国船はどのような船だったのでしょうか。
 まず、『日本書紀』によれば、唐側の船は「戦船(いくさぶね)」と記されています。いわゆる戦艦で、鉄板が張ってあり防御性に優れ、また櫓を設けて、そこから射かけるなどの攻撃が可能なように造られていました。一方、日本側のそれは、中国側の史料である『旧唐書』劉仁軌伝には、単に「舟」と書かれており、唐から見れば、小舟にすぎない貧弱な兵備であったと考えられます。その倭国船が具体的にどのような構造の船であったかは、よくわかりませんが、古墳から出土している船形埴輪などから推定すると、木製の丸木舟(刳船)に竪板(舷側板)を追加した、準構造船と呼ばれる様式の船だったのではないか、と考えられます。こうした点を踏まえて作成したのが、講義でも紹介しました白村江戦想像図です。この想像図は私が監修したもので、『再現イラストでよみがえる日本史の現場』(朝日新聞出版、2022年)32~33頁に収められています。
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◎第2講 令和5年5月17日(水)

「大宰府成立への道程~那津官家・筑紫大宰・筑紫総領~」
講師・回答:熊谷 公男氏(東北学院大学名誉教授)
倭国の「任那復興」政策について
 任那滅亡後、倭国の対外政策の柱が「任那復興」となった理由は何でしょうか。それはのちに新羅からの「任那の調」の貢納へと変化していきますが、倭国がこれらを執拗に求めたのは何故でしょうか。また「任那の調」とは、具体的には何でしょうか。例えば鉄資源などでしょうか。
 かつて”大和朝廷による任那の植民地支配”説が事実と考えられていた時期には、その植民地であった任那が失われたのですから、倭国が「任那復興」を対外政策の柱とするのは当然のこととされていました。しかし、講座でも述べましたように、その植民地支配説が崩壊した現在では別の説明が必要です。
 この倭国の「任那復興」あるいは「任那の調」貢納へのこだわり・執着について、わたくしは、5世紀前半の倭国と「任那」地域との緊密な関係にその原点があると考えています。この時期に「任那」地域からの渡来人がさまざまな先進的な文物をもたらし、当時の王権の強化や社会の技術革新をもたらしたのでした。こうしたことを通じて、「任那」地域に対する特別な思いの基礎が形づくられたのもこの時期であったと思います。列島に住まう人びとにとっても、また倭王権にとっても「任那」はかけがえのない存在であったことが、「任那復興」また「任那の調」へのこだわりに表れているものと考えています。
 その「任那の調」が具体的に何をさすかは、史料が残っていないためわかりません。鉄資源とする説もありますが、わたくしはむしろ、それは倭国へのミツキとして象徴的な意味をもつものであったと考えますが、それが何であったかは不明というほかはありません。
白村江敗戦後の山城築城について
 山城はなぜ瀬戸内海にまで築城されているのでしょうか。また、その中の長門国の城はどこに比定できるでしょうか。
 瀬戸内海にも山城が築城されたことについては、やはりヤマトまでの敵襲を想定したためであろうと思われます。また、長門国の城については、下関付近を中心にいくつかの候補地があるようですが、まだ遺跡は見つかっていません。
筑紫総領について
 筑紫総領は官職名でしょうか。あるいは組織(統治機構)名でしょうか。
 これについては、講座でも述べましたが、わたくしは、少なくとも『日本書紀』の白村江戦以後にみえる「筑紫大宰」については、「筑紫総領」を書き換えたものだと考えます。そのうえで、この「筑紫総領」の記事をみていきますと、『続日本紀』文武4年に石上麻呂を「筑紫総領」に任命した(講座資料レジュメ5頁)、とありますから、「筑紫総領」は官職名と考えられます。
一方で、「筑紫総領」を中核とする組織が何と呼ばれたかはよくわかりませんが、講座の中で参考文献として挙げた坂上康俊さんは、講座資料レジュメ5頁③周防の天武14年11月に「周芳総令所」がみえることから、「筑紫総領所」であった可能性を示されています。
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◎開講式・第1講 令和5年4月19日(水)

開講式  「大宰府アカデミー開講にあたって」
講師:佐藤信氏(大宰府アカデミー・令和編 学長・東京大学名誉教授)

第1講  「大宰府の研究と調査の歩み」
講師:小田富士雄氏(大宰府アカデミー・令和編 顧問・福岡大学名誉教授)
開講式  「大宰府アカデミー開講にあたって」 講師:佐藤信氏(大宰府アカデミー・令和編 学長・東京大学名誉教授)
第1講  「大宰府の研究と調査の歩み」 講師:小田富士雄氏(大宰府アカデミー・令和編 顧問・福岡大学名誉教授)
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