協会からのお知らせ

(公財)古都大宰府保存協会から、催事や活動の様子などをお伝えします。

2019年5月

2019年 05月01日
元号「令和」ゆかりの地 太宰府
元号「令和」ゆかりの地 太宰府

         古代九州を統括した地方最大の役所・大宰府政庁跡の風景

目次
 1.元号「令和」と太宰府
 2.『万葉集』と「梅花の宴」
   ・梅花の歌三十二首序文について
   ・「梅花の宴」の舞台となった大伴旅人の邸宅について
   ・市内の万葉歌碑ご紹介

 
1.元号「令和」と太宰府
 
 平成31年4月1日、日本政府は新たな元号を「令和(れいわ)」と決定しました。
 天皇陛下即位に合わせ5月1日から使用される「令和」は、645年の「大化」から数えて248番目の元号となります。
 「令和」の典拠は、1200年余り前に編纂された日本最古の歌集『万葉集』に収められた「梅花の歌三十二首 序文」にある、
 
 初春の月にして(しょしゅんのれいげつにして)、
 気淑く風ぎ(きよく かぜやわらぎ)、
 梅は鏡前の粉を披き(うめは きょうぜんのこをひらき)、
 蘭は珮後の香を薫ず(らんは はいごのこうをくんず)。
 
の文言を引用したもので、「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味が込められた元号となっています。

 かつて太宰府には、7世紀後半から12世紀前半にかけて地方最大の役所「大宰府」が置かれ、西海道(九州一帯)の統治、対外交流の窓口、軍事防衛の拠点という重要な役割を担っていました。大宰府の長官は大宰帥(だざいのそち)と呼ばれ、大伴旅人(おおとものたびと)は727年ごろ大宰府へ赴任しました。
 大伴旅人は政治家としてだけでなく、歌人としても才を発揮した人物で、赴任した大宰府においても文人たちと交わり、山上憶良(やまのうえのおくら)らと共に優れた歌を残しました。後に「筑紫万葉歌壇」と呼ばれる華やかな万葉文化が、大宰府の地に花開いたのです。
 天平2年(730年)正月13日、大伴旅人は自身の邸宅に大宰府や九州諸国の役人らを招いて宴を開催しました。当時、中国から渡来した大変高貴な花であった梅をテーマに歌を詠んだことから「梅花の宴」と呼ばれています。今回、元号「令和」の典拠となった文言は、この「梅花の宴」で詠まれた32首の歌の序文になります。

大宰府展示館では、博多人形師・山村延燁(やまむらのぶあき)氏が製作した博多人形による「梅花の宴」の再現展示をしています。優雅な姿を是非ご覧ください。
 
「だざいふ」の
律令制下の役所を指す場合は「宰府」と「」を用い、現在の行政名「宰府市」や「宰府天満宮」には「」を用いています。


 
2.『万葉集』と「梅花の宴」

 『万葉集』は8世紀後半頃に成立した日本最古の歌集といわれ、約4500首の歌が収められています。天皇・皇族をはじめ、貴族など上流階級の人々だけでなく、防人(さきもり)や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められており、日本の豊かな文化と長い伝統を象徴する歌集です。
 『万葉集』を編集したのは、「梅花の宴」を開催した大伴旅人の息子・大伴家持(やかもち)といわれています。宴で詠まれた歌をはじめ、九州にまつわる歌が300首以上収められており、家持が少年時代を過ごした大宰府の風景や「梅花の宴」が強く印象に残っていたのかもしれません。

『万葉集』(写本)  書写・寄贈 陶山雪代氏
梅花の歌三十二首序文の収められている巻五を中心に展示しています。

梅花の歌三十二首序文について
 「梅花の宴」は、中国の書家・王羲之(おうぎし)が353年に開催した「曲水の宴」にならって、日本の和歌を詠み交わした宴です。ここで詠まれた和歌のはじめに序文がつけられていますが、これも王羲之が記した序文「蘭亭序(らんていじょ)」にならい、日本人の感性や趣向を基に白い梅花を詠む宴の序文として、大伴旅人が作ったとみられています。

 

天平二年正月十三日、(そち)(おきな)(いへ)(あつ)まりて、宴会を(ひら)きき。時に、初春の月にして、気()く風(やはら)ぎ、梅は鏡前の粉を(ひら)き、(らん)珮後(はいご)(かう)(くん)ず。加之(しかのみにあらず)、曙の嶺に雲移り、松は(うすもの)を掛けて(きぬがさ)を傾け、夕の(くき)に霧結び、鳥は(うすもの)()められて林に(まと)ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。ここに天を(きぬがさ)とし、地を(しきゐ)し、膝を(ちかづ)(さかづき)を飛ばす。(こと)を一室の(うら)に忘れ、(ころものくび)を煙霞の外に開く。淡然(たんぜん)に自(ほしきまま)にし、快然に自ら足る。若し翰苑(かんゑん)あらぬときには、何を以ちてか(こころ)()べむ。請ふ落梅の篇を(しる)さむ。古と今とそれ何そ異ならむ。園の梅を()して(いささ)かに短詠を成す()し。

                          参考文献:太宰府市『太宰府市史 文芸資料編』
 

天平二年(730)正月13日、帥老の宅に集まって宴会を開く。あたかも初春のよき月、気は麗らかにして風は穏やかだ。梅は鏡台の前のお白粉のような色に花開き、蘭草は腰につける匂袋のあとに従う香に薫っている。しかも、朝の嶺には雲が動き、松は雲の薄絹を掛けたように傘を傾ける。また夕の山洞には霧が立ちこめ、鳥は霧の縮み絹に閉ざされたように林に迷い飛ぶ。庭には生まれたばかりの蝶が舞い、空には去年の秋に来た雁が北に帰って行く。さてそこで、天空を覆いとし大地を敷物としてくつろぎ、膝を寄せ合っては酒盃を飛ばす如くに応酬する。一堂に会しては言葉を忘れ、美しい景色に向かっては心を解き放つ。さっぱりとして心に憚ることなく、快くして満ち足りている。詩歌を他にして、この思いを何によって述べようか。詩には落梅の篇を作るが、古も今もどんな違いがあろう。さあ、園梅を詠んで、ここに短き歌を試みようではないか。    
                          参考文献:岩波書店 新日本古典文学大系『萬葉集



「梅花の宴」の舞台となった大伴旅人の邸宅について
 「梅花の宴」の舞台となった大伴旅人の邸宅については、現在まではっきりとした事は分かっておらず、幾つかの説があります。
 邸宅があったと伝えられる大宰府展示館東側の月山東地区官衙、大宰府政庁跡の西北に鎮座する坂本八幡神社一帯、大宰府条坊の中などの場所をご紹介いたします。

 
その1 月山東地区官衙跡
 大宰府展示館の東側にはコンクリートの柱が立てられていますが、これらの柱は発掘調査で確認された建物や柵の柱を再現したものです。月山東地区の発掘調査では、複数の建物跡やそれら建物を囲むような東西の約110m・南北約70mの規模の柵が確認されており、大宰府政庁に隣接する場所に大規模な区画で建物が建てられていたことがうかがえます。
 また、大宰府展示館で公開されている玉石敷の溝は、通常の溝と違い、石が綺麗に敷き詰められた構造のため、太宰府天満宮で行われている曲水の宴のような特別な儀式や行事に使われたのでは?とも考えられています。
 これらのことから、大宰府の長官であった帥の邸宅だったのでは?といわれている場所の1つとなっています。
 
月山東地区官衙跡 遠景           森野晴洋氏製作 大宰府政庁周辺復元ジオラマの月山東地区官衙
 大宰府展示館内の玉石敷きの溝

その2 坂本八幡神社周辺
 坂本八幡神社は、坂本地区の土地神、産土神として祀られている神社で、祭神は応神天皇です。はっきりとした由緒は分かっていませんが、『福岡県神社誌』には「天文・弘治年間の頃勧請…」とあり、戦国時代に勧請されたと伝わります。現在も坂本地区の方々、氏子会の方々によって神戻しや宮座など様々な神事が行われています。
 この坂本八幡神社周辺一帯が、地元では古くから大伴旅人の邸宅があったと伝えられてきました。付近には「大裏(だいり)」という地名がありますが、古代には天皇がいた空間を内裏(だいり)と呼んでいました。太宰府には、落ち延びる平氏とともに安徳天皇が来られた記録もありますが、大宰府の内裏として身分の高い人が住んでいたとでは?というところから、大宰帥・大伴旅人と結びついていったようです。
 周辺地域は昭和47年、61年・62年に発掘調査が行われ、掘立柱建物跡や鍛冶工房の跡を示すような出土物が出ましたが、長官クラスの大規模な建物跡などはまだ確認されていません。今後、発掘調査が進むと旅人の邸宅跡が姿を現すのかもしれません。
 
坂本八幡神社                境内の万葉歌碑(大伴旅人)
 
坂本八幡神社の様々な行事(左:春籠もり 右:神戻し)

その3 大宰府条坊 榎社・客館周辺
 榎社はかつて、府の南館と呼ばれた菅原道真公の配所の跡で、菅原道真公が大宰権帥に左遷され、延喜元年2月下旬に太宰府に到着してから延喜3年2月25日に亡くなるまで約2年間滞在しました。
古代には大宰府政庁から南へと朱雀大路と呼ばれる大きな道が伸びていましたが、その道沿いに榎社は位置しており、官人が呼んだ和歌などから大宰府に勤めた高官の屋敷が周辺にあった様子がうかがえます。
 また、周辺からは大宰府では長官である大宰帥しか身につけられなかった革帯を飾る白玉帯も見つかっており、この一帯に帥=大伴旅人の邸宅があったのではないかと考える物証ともなっています。
 
大伴旅人が大宰府で詠んだ歌に「わが岡に」の言葉が数多く登場することから、旅人の邸宅近くには岡(丘陵)があったようです。
 
わがに さ男鹿来鳴く 初萩の 花嬬問ひに 来鳴くさ男鹿   巻八(一五四一)
 
我がの 秋萩の花 風をいたみ 散るべくなりぬ 見む人もがも 巻八(一五四二)
 
我がに 盛りに咲ける 梅の花 残れる雪を まがへつるかも  巻八(一六四〇)
 


 ご紹介した3ヶ所はそれぞれにロマンがあり、麗しい梅花の宴が開かれたであろう情景が思い浮かぶ場所でもあります。太宰府へお越しいただいた際には、ぜひそれぞれの場所を巡っていただき、想いを馳せて頂ければと思います。


市内の万葉歌碑ご紹介
 日本遺産『古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~』に認定された太宰府市には、いにしえの歌人達が詠んだ歌を記した万葉歌碑が数多くあります。大宰府政庁跡周辺には6基、太宰府市全体では40基以上あり、大伴旅人が詠んだ歌は11基あります。これらの歌碑を巡りながら散策してみてはいかがでしょうか。