2019年 07月01日
大宰府政庁周辺 再現ジオラマ 古代の大宰府を覗いてみよう!!
※2021年11月13日より、新たなジオラマ「大宰府条坊イメージジオラマ」と統合した展示へと変更いたしております。
大宰府は西海道の九国三島(後に二島)を統括し、対外的な役割も担った地方最大の役所でした。昭和43年から始まった発掘調査によって、往時には大宰府政庁を中心として、周辺一帯に数多くの関連施設があったことが明らかになってきました。
大宰府展示館で展示している大宰府政庁周辺再現ジオラマは、森野晴洋氏が8世紀後半頃の大宰府を、発掘調査報告書などを基に精密に製作されたものです。建物だけではなく、政庁で行われている儀式や各所で働く役人達なども再現いただきました。
甦った古代大宰府の様子をぜひご覧ください。
〔製作にあたり〕
大宰府展示館の方々をはじめ、関係者の皆様からのご支援により、大学生の頃から興味のあった8世紀後半の大宰府政庁周辺のジオラマを製作することができました。独自の解釈で製作した部分もありますが、古都大宰府にタイムスリップし、散策を楽しんでいただければ幸いです。ご支援いただいた関係者の皆様に厚く感謝申し上げます。
平成30年11月10日 森野晴洋
大宰府展示館の方々をはじめ、関係者の皆様からのご支援により、大学生の頃から興味のあった8世紀後半の大宰府政庁周辺のジオラマを製作することができました。独自の解釈で製作した部分もありますが、古都大宰府にタイムスリップし、散策を楽しんでいただければ幸いです。ご支援いただいた関係者の皆様に厚く感謝申し上げます。
平成30年11月10日 森野晴洋
◆古代大宰府を歩く
それではジオラマで再現された8世紀後半の大宰府を探訪してみましょう♪1.朱雀門
大宰府政庁の正面には正門である朱雀門があったと考えられており、政務を行う空間と南側に広がる街並みを区切っていたようです。
朱雀門の跡は確認されていませんが、1982年に行われた御笠川での河川工事の際、川底から大きさ2.4m✕1.8m、厚さ1.3m、重さ7.5tもある巨大な礎石が見つかったことから門の存在が推測されています。
門の前には警固の兵士が立ち、通る人々をチェックしていたようです。
右側の写真は、展示館から歩いて5分ほどの朱雀大路交差点そばに置かれている朱雀門礎石です。
2.前面広場地区
朱雀門の北側から大宰府政庁の入口である南門にかけては広場があったことが発掘調査で分かっています。広場を作るため、谷筋を埋め立てるなど大規模な整地作業が行われたようです。
朱雀門を過ぎると広場となっており、正面には大宰府の中心である政庁が見えてきます。
広場には、九州各地からの税を運ぶ人々が行き来しているようです。また、広場の隅では警固の役人たちが皆で鍛錬を行っている様子がうかがえます。
3.大宰府政庁
九州全体を治めていた地方最大の役所・大宰府ですが、その中心的な建物を政庁といいます。政庁では、左右に2つずつ並ぶ脇殿や正殿などで政務が行われていました。また、建物に囲まれた中央の広場では儀式などが行われていました。
ジオラマを覗いてみると、広場では紫の服を着た長官である帥が、役人たちを一同に集めて訓示などをしているようです。
また、重要な施設である政庁を警護するため、南門の前には兵士たちが立っています。
おや?南門の右手から御供を連れた女性が桃色の傘を差して歩いてきています。その様子から身分の高い方のようです。もしかすると長官である大宰帥の奥様かもしれませんね。
現在の大宰府政庁跡
○大宰府政庁周辺の官衙
大宰府には様々な仕事を行う官衙(役所)が19あったと考えられており、その多くは政庁周辺に置かれていたようです。発掘調査が進められていく中で、大宰府政庁周辺に存在していた官衙(役所)の様子が分かってきました。政庁の周辺に広がる地区を見ていきましょう。
【大宰府政庁周辺の官衙関連地区一覧】
◆大宰府の主な組織
主神司(神祇祭祀) 防人司(防人の管理監督)
蔵司 (調庸物の出納) 税司 (正税等の出納)
匠司 (営繕・手工業生産) 主船司(船舶の修理)
主厨司(食材の調達) 薬司 (医療・医薬の管理)
城司 (大野城等の管理) 学校院(役人の養成)
府政所(大宰府の事務の統轄) 国政所(筑前国兼帯の国務)
貢上染物所(貢納物の染色) 作紙所(紙の生産)
警固所(外敵防備) 修理器仗所(兵器の修理)
兵馬所・兵馬司(兵馬の管理) 大帳所(計帳の管理)
公文所(公文書の保管) 貢物所(貢納物の弁備)
蕃客所(外国使節の応接)・大宰府鴻臚館
4.蔵司地区
大宰府政庁周辺に存在していた官衙(役所)のうち、まずは政庁西側にある蔵司地区をみてみましょう。
古代において西海道(九州)を統括していた大宰府には様々な役所がありました。その1つに九州各地からの税物の出納や大宰府の財政を管理した「蔵司」という役所がありました。
大宰府政庁のすぐ西側にある丘陵は、地元で「くらつかさ」と呼ばれており、建物の柱の土台となる礎石も数多く残っていたことから、「蔵司」はここにあったのではと考えられてきました。
現在、九州歴史資料館による発掘調査が行われており、この場所にかつてあった「蔵司」の様子が徐々に明らかになってきています。
(※蔵司地区は現在も発掘調査が行われておりますので、自由な一般見学は出来ません。現地説明会などの機会をぜひご利用下さい。)
ジオラマを覗いてみると、ちょうど荷車で運んできた大量の荷物を下ろす作業が終わったようです。疲れた人々の横で、青色や黄色の服を着た役人たちが荷物の内容を確認しているようです。
また、隣にある倉庫に囲まれた場所では、黄色の服の役人が、荷物の運び先などの指示を出しているようです。
5.不丁地区
大宰府政庁の南側、前面広場の西側に位置するのが不丁地区です。
ここでは、発掘調査によって大規模な建物・柵・区画溝・井戸などが確認されました。
また、地中からは190点ほどの木簡が出土しており、紫草に関するものも多いことから染色の工房(貢上染物所)があったのではと考えられています。
その他にも、墨で文字が書かれた墨書土器も多く出土しており、記されていた「政所」などの文字から、行政的な事務を取りまとめる役所があったとも考えられています。
ジオラマを覗いてみると、生産された製品を黄色の服の下級役人が確認しているようです。無事にチェックが終わった物から積み込みや運び出しが行われているようです。
大宰府政庁跡交差点そばには、旧小字「不丁」を示した石柱が残っています。
6.大楠地区
不丁地区の西側には大きな溝(SD320)を挟んで大楠地区があります。これまで大楠地区は官衙(役所)ではなく役人たちが住む地域と考えられてきましたが、発掘調査によって大規模な建物が地区の南北で見つかり、溝や柵なども確認されていることから、官衙があったと考えられるようになってきました。
大楠地区周辺では、「烏賊」、「腊」(干物の一種)と書かれた木簡、「厨」と読める墨書土器、移動式の竈などが見つかっており、大宰府の食を司った役所「主厨司」が存在していたのではないかと考えられています。
ジオラマを覗いてみると、なにやら大勢の人々が忙しそうに働いています。北側では荷物を運ぶ人々の姿が見え、建物の前にはたくさんの壷や甕が並べられて確認作業が行われているようです。各地から運ばれた食材の数々が詰まっているのでしょうか。
一方、南側では大きな容器を大切そうに運ぶ2人組みの姿が見えます。もしかすると食事として皆に出される羹(温かい汁物)をこぼさないよう慎重に運んでいるのかもしれません。
7.月山と月山東地区
大楠地区の次は、政庁を挟んで反対側の東側にある地区をみていきましょう。
大宰府展示館の北側に隣接する丘陵が月山です。地元では、漏刻(水時計)が設置されていたと伝えられています。大宰府は774年には漏刻が設置されていたことが『続日本紀』にみえますので、もしかすると月山から時を告げる音が大宰府の街並みに響いていたかもしれません。
大宰府展示館や月山の東側に広がるのが月山東地区です。発掘調査によって複数の建物や東西約110m・南北約70mに及ぶ柵が確認されました。政庁に隣接する大規模な遺跡であることから、梅花の宴を開催した大伴旅人の邸宅の候補地の1つとされています。
ジオラマを覗いてみると、建物の広場にたくさんの人々が集まっています。広場に立てられた旗を中心に、円を描く人々が賑やかに伎楽や舞楽を演じている様子を皆で楽しんでいるようです。
大宰府展示館を出てすぐ東側には、発掘調査で確認された建物の柱や柵の列の跡などが再現されています。
8.日吉地区
大宰府政庁の南東側、月山東地区から見ると南側にあるのが日吉地区です。
発掘調査でコの字形の大規模な建物跡が確認され、文字を書くのに不可欠な硯が130点ほど出土していることから、事務が主な業務である役所だったようです。
ジオラマを覗いてみると、中央では役人たちが集まって打ち合わせをしているようです。担当者である青色の服の役人が、今日の業務内容について指示を出しているのかもしれません。
また、地区の南では大宰府の高官(大弐や少弐)である赤い服を来た役人を中心に、役人たちが武術の試合を見守っているのでしょうか。腕利きの役人たちが日頃の鍛錬の成果を披露しているようです。
9.学校院
大宰府政庁の東側には、役人を養成する機関である学校院があったと考えられています。
1971年に発掘調査が行われましたが、当時の詳しい状況は分かっていません。
当時は国毎に機関が置かれましたが、筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後の6ヵ国は大宰府へ来て学びました。学校院では、中国の書物を教科書として、役人に必要な政治・医術・算術・文章などの知識を学んでいました。一時期は約200人が学んでいた記録もあることから、学問の中心地として賑わったようです。
ジオラマを覗いてみると、どうやら緑色の服を着た教官の博士に、学生たちが講義で分からなかったところを質問しているようですね。
国史跡大宰府学校院跡 現在の風景
10.観世音寺
観世音寺は天智天皇が母・斉明天皇の菩提を弔うため発願したお寺です。「府の大寺」と呼ばれた大寺院で、境内には国宝の梵鐘をはじめ、天平の石臼(碾磑)や五重塔の礎石などが現在も残ります。また、宝蔵には5mを超える馬頭観世音菩薩立像をはじめ、16体の尊像(重要文化財)が安置されており、西日本随一の仏教美術を見学することが出来ます。
当時の観世音寺は、境内の東側に菩薩院、西側に僧侶に戒律を授けるための戒壇院があり、北側にはたくさんの僧侶たちが生活する巨大な僧房がありました。
また、東側には大衆院と考えられる東院、西側には政所院と考えられる西院と呼ばれる場所があり、観世音寺の寺院活動や僧侶の生活を支える施設として機能していたようです。
ジオラマを覗いてみると観世音寺の境内にたくさんの僧侶が集まっているようです。これから大切な法要などが行われるのでしょうか。
また、戒壇院には僧侶たちが規律正しく並んでいます。戒律を授かるための準備をしているのかもしれませんね。
ジオラマで見る古代大宰府はいかがだったでしょうか。古代の大宰府は、政庁を中心とした様々な役所をはじめ、教育機関や寺院などが建ち並ぶ一大都市でした。「天下之一都会」ともいわれた往時の大宰府の様子を、ジオラマを通じて知って頂ければ幸いです。
太宰府市には今回ご紹介した以外にも古代にゆかりある様々な遺跡が残っています。ぜひ現地を散策しながら、古代の大宰府に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。