協会からのお知らせ

(公財)古都大宰府保存協会から、催事や活動の様子などをお伝えします。

大宰府展示館

2023年 03月13日
大宰府展示館 入館に際してのお願い
当館の取り組み
● 来館者の皆様に安心してご観覧いただけるよう、新型コロナウイルス感染症感染拡大防止のため、消毒液の設置や換気などの安全対策を実施します。

以下のお客様につきましては、ご来館をお控えいただきますようお願いいたします
● 体調がすぐれないお客様
● 発熱や風邪、臭覚、味覚障害の障害があるお客様

来館されるお客様へのお願い
● マスク着用のご協力をお願いします。
  また、咳エチケットの励行、入館時の手の消毒など、来館者の皆様がお互い安心してご観覧いただけるよう、ご理解、ご協力をお願いいたします。
● 館内での密集をさけるため、入館者数、入館時間を制限する場合がありますので、ご了承ください。
● 観覧される際は、他のお客様との距離をあけてご見学ください。
● 混雑状況によってはご入館をお待ちいただく場合がございます。ご理解とご協力をお願いいたします。


皆様のご来館を心よりお待ちしております。
 
2021年 11月26日
大宰府政庁跡に立つ三基の石碑
 古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~

 大宰府政庁跡を訪れると中央にひときわ目立つ3基の石碑が目に入ります。
 これらの石碑は今から約100年~150年前に大宰府跡の保護を願って建立されたものです。
 古代において地方最大の役所「大宰府」が置かれた政庁跡でしたが、機能が終焉(しゅうえん)した中世以降は荒廃が進みました。
 その後、近世・江戸時代以降になると礎石が抜き取られ、土地は田畑へ転用されて耕作地になるなど、さらに荒廃していきました。

 そのような中、明治4(1871)年、明治13(1880)年、大正3(1914)年と相次いで政庁跡に「大宰府」を顕彰する石碑が建立されました。

向かって左側  太宰府址碑(だざいふあとひ)  明治13(1880)年 建立
向かって中央  都督府古趾碑(ととくふこしひ) 明治4(1871)年  建立
向かって右側  太宰府碑(だざいふひ)       大正3(1914)年  建立

 地元の人々による「大宰府」保護への強い願いと深い想いの顕れであるこれら3基の石碑についてご紹介いたします。



太宰府址碑 明治13(1880)年8月建立

 刻まれている文章(碑文)は、黒田藩の学問所修猷館(しゅうゆうかん)の館長であった竹田定簡(たけださだひろ)の案を基に、福岡県令を務めていた渡辺清(わたなべきよし)が作成したと考えられています。

 碑文には、大宰府の由来をはじめ、時代と共に移り変わり行く中で今は礎石(そせき)を残すのみとなった大宰府跡が、廃墟となり跡形もなく消え去ってしまう事を嘆き、御笠郡(みかさぐん)の人々がこの碑を建立したことが記されています。
 この500字程に及ぶ碑文の文字を書いたのは、明治時代を代表する書家として知られる日下部鳴鶴(くさかべめいかく)です。彦根藩に生まれた鳴鶴は官僚として活躍しますが、40歳の時に官を辞して、書の道に生きました。石碑にある東作(とうさく)は本名です。
 また、碑文の上に大きく篆書体(てんしょたい)で書かれた「太宰府址碑」の字は有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の筆とされます。親王は明治新政府の総裁を務めるなど活躍した人物ですが、西南戦争の指揮のため九州を訪れたり、大宰帥(だざいのそち)や福岡県令を務めるなど福岡と縁深い人物でもありました。

〔太宰府址碑 碑文〕 (PDFファイル 120KB)

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都督府古趾碑 明治4(1871)年7月建立

 正殿跡にある3基の石碑の中で最も古いものです。
 石碑を建立した高原善七郎は御笠郡乙金村(おとがなむら)〔現在の福岡県大野城市〕で代々庄屋を務める家に生まれました。
 33歳で大宰府跡が所在する観世音寺村(かんぜおんじむら)庄屋を務めるなど活躍すると共に、地域に残る文化財の調査や保存、顕彰(けんしょう)などにも努めました。

 81歳で政務を引退した善七郎が最後に取り組んだのが政庁跡への石碑建立でした。歴史ある大宰府跡が荒れ果て、人々に忘れ去られていくことに心を痛めていた善七郎は、明治3(1870)年に長年の悲願であった石碑建立を願い出ました。明治4(1871)年に無事建立され、その様子を見届けるかのように建立の翌年(1872年)に善七郎は永眠しました。
 石碑にある「都督府(ととくふ)」は古代中国の役所の名称で、菅原道真(すがわらのみちざね)公が漢詩「不出門(ふしゅつもん)」で大宰府を中国風に「都府(とふ)の楼には・・・」と表現したことに由来しており、現在も大宰府政庁跡は都府楼跡(とふろうあと)と呼ばれ親しまれています。

〔参考:高原善七郎の石碑建立の願書控〕(PDFファイル 56KB)
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太宰府碑 大正3(1914)年8月建立

 政庁跡の3基の中で建立が最も新しいものですが、石碑の文章が作られたのは最も古いものです。
 碑文を作ったのは儒学者・医者であり福岡藩西学問所・甘棠館(かんとうかん)の学長を務めた亀井南冥(かめいなんめい)です。
 南冥は寛政元(1789)年11月に文章を完成させましたが、碑文の一部「當今封建國邑(まさにいまこくゆうをほうけんし) 名器非古(めいきいにしえにあらず)」が体制批判であるとされ、石碑の建立は中止されてしまいます。

 この時期は福岡藩内で学閥(がくばつ)争いがあり、やがて幕府の命令により朱子学以外の学問が禁止されると、南冥は職を解かれ謹慎のとなり、文化11(1814)年失意のうちに亡くなります。
 その後、南冥の志を受け継いだ門下生などの尽力により、南冥没後100年の大正3(1914)年に石碑が建立されました。

〔太宰府碑 碑文〕(PDFファイル 151KB)
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■古絵葉書から見る政庁跡の石碑

戦前発行の絵葉書に写された政庁跡や石碑の風景をどうぞご覧ください。


絵葉書 その1 PDFファイル 290KB
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絵葉書 その2 PDFファイル 274KB
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絵葉書 その3 PDFファイル 304KB
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☂ 雨天時は大宰府展示館へどうぞ

大宰府展示館では太宰府拓友会の皆様に採取いただいた三基の石碑の拓本を展示しております。
雨天時など、現地での石碑見学が難しい場合はぜひ大宰府展示館をご利用ください。


〔参考文献〕
・太宰府市文化ふれあい館『拓本でたどる保存の心』2006年
・太宰府市文化ふれあい館『碑帖辿歴 拓本で紡ぐ史跡のかたち』2019年

2021年 11月12日
古代の大宰府を眺めてみよう「大宰府条坊イメージジオラマ」公開中です
■はじめに
 太宰府市の中央に位置する大宰府政庁跡には、7世紀後半から奈良・平安時代にかけて九州の政治・文化の中心となり、東アジアの国々との外交の窓口、軍事防衛の拠点として重要な役割を担った役所が置かれていました。
 この大宰府政庁跡に隣接する大宰府展示館は、昭和55年の開館以来、大宰府史跡の発掘調査で見つかった貴重な遺構を保存公開し、出土遺物や模型などで大宰府の歴史と文化をご紹介してきました。近年では、元号「令和」の典拠となった「梅花の宴」を博多人形で再現したジオラマを展示していることから、全国各地から多くのお客様にお越しいただいております。
 このたび、古代の大宰府をイメージしていただける「大宰府条坊 イメージジオラマ」を新たな展示資料として公開する運びとなりました。ぜひ一度、大宰府展示館へ足をお運びくださいませ。


 
■資料について
 今回新たに展示します資料は「大宰府条坊イメージジオラマ」です。
 古代の大宰府には約2km四方の街並みが広がり、内部は条坊制(じょうぼうせい)と呼ばれる奈良・平城京のような碁盤の目状の区画がされていました。
 大宰府の条坊についてはこれまで研究が重ねられており、近年は太宰府市教育委員会文化財課・井上信正氏が提唱する南北22条・東12坊・西8坊、1区画が90m四方の想定案が注目されています。
 本資料では、条坊の街並みのうち朱雀大路を中心に客館や南館、般若寺などの主要施設を含む、南北は8条から22条、東西は朱雀大路を中心に各6坊ずつの範囲を制作しています。

■資料詳細
 平面部分:750分の1スケール
 建物の高さ・地形の高さ:実際の縮尺で制作すると視認し辛い為、それぞれ視認しやすい任意の比率に高めて制作されています。
 サイズ:150cm×190cm


■古代大宰府の街並みについて
 古代大宰府の街並みは、中国・唐の長安にならった平城京や平安京と同じく、北の中央に中心となる施設・政庁(せいちょう)が置かれました。
 この政庁を起点として、南へ延びる朱雀大路 (すざくおおじ)を中心に碁盤の目のように道路が走り、街並みを区画する条坊制(じょうぼうせい)が広がっていたようです。
 条坊制に基づいて大宰府の街並みが造られていることは、大宰府が自然発生した都市ではなく、国家が主導して建設した都市であることを意味しています。当時の中国を中心とした東アジアの枠組みの中で、国際的な役割を担う都市として位置づけられていたようです。
 古代大宰府の街並みについては、大宰府史跡の発掘調査が進むなかで様々な復元案が検討されてきました。
 条坊制では東西を結ぶ列を条(じょう)、南北を結ぶ列を坊(ぼう)と呼びますが、現在では22条、朱雀大路を中心に東側に12坊、西側に8坊、それぞれの一区画が90m四方の街並み復元案が提示されています。


※赤枠部分が今回のジオラマで制作された範囲となります。
(図:太宰府市教育委員会文化財課 井上信正氏作成のものに一部加筆)


■ジオラマのイメージした時代8世紀後半ごろの大宰府について(赤枠内がおおよその時期)



■ジオラマ内の各所解説

朱雀大路(すざくおおじ)
 古代日本の都において、中央を南北に通じる主要道路を朱雀大路と呼びますが、大宰府の街並みにも大路が存在していました。大路は8世紀初頭頃に工事が行われたと考えられており、大宰府政庁の南側に位置する朱雀門からまっすぐ南へと延びています。
 大路は奈良・平城京の朱雀大路の半分の規模で設計されたようで、幅は36mほどありました。現在の高速道路10車線分にあたる幅ですが、8世紀後半から9世紀にかけて30mほどに、11世紀には15mほどになった箇所もあるなど、時代と共に大路の役割が変化するなかで道幅も縮小していったようです。

客館(きゃくかん)
 客館とは、外国からの使節たちが滞在するための施設です。古代における大宰府は、諸外国とのやりとりを行う窓口として重要な役割を担っていたため、政庁で外交儀礼などが行われました。
 海を渡ってやってきた外国の使節たちは、博多湾沿いの筑紫館(鴻臚館)にまず滞在し、その後、官道を進み、水城の西門を通り、大宰府の街並みへ南側から入り、客館に滞在しました。客館跡では青銅で出来たお鋺や皿、スプーン、貴重な陶磁器などが見つかっており、豪華なおもてなしが行われていたようです。

南館(なんかん)
 大宰府の街並みの中央を南北に貫く朱雀大路沿いには、大宰府で働く身分の高い役人(高官)の館が存在していたようです。901年、都から大宰府へ流されてきた菅原道真公は高官用の館に滞在しましたが、手入れも悪く、大変荒れ果てた様子だったようです。道真公が滞在した館は「府の南館」とも呼ばれ、道真公の死去後には浄妙尼(じょうみょうに)を祀る祠が建立され、現在は榎社が鎮座しています。
 また、榎社の周辺からは平安時代に公卿(くぎょう)(上流貴族)だけが着用を許された白玉帯(はくぎょくたい)の飾り(正方形をした巡方(じゅんぽう))も見つかっていることから、朱雀大路沿いにおける高官たちの活動がうかがえます。

般若寺(はんにゃじ)
 筑紫大宰帥(だざいのそち)であった蘇我日向(そがのひむか)が孝徳天皇(こうとくてんのう)の病気平癒を祈り、654年に建立したといわれる古代の寺院です。太宰府市朱雀(すざく)二丁目には般若寺という字名があり、現在も住宅地の一角に塔跡の一部と心礎(しんそ)(塔の中心柱の土台となる石)が残っています。
 般若寺は天皇ゆかりの寺院ですが不明な点も多く、筑紫野市にあった塔原廃寺(とうのはるはいじ)が奈良時代に入り大宰府へ移転したという説もありますが、諸説あり未だ確定はされていません。

■制作者 森野 晴洋(もりの はるひろ)様 広島県在住。
 歴史に関心を持っておられたが、大学時代を福岡で過ごしたなかで古代大宰府についても関心を持ち、古都大宰府をイメージできるようなものがあれば太宰府市を訪れる方々もより関心を持っていただけるのではと思案。
 そこで模型作りの特技を活かし、奈良市役所の平城京復元模型、京都市平安京創生館の平安京復元模型のような一目で往時の様子が分かるジオラマ制作を考え、古都大宰府保存協会にご相談いただいたのが制作の発端でした。
 それから約2年の歳月をかけて、当会からも参考資料などを提供し協議を重ねながら、社会貢献の一環としてボランティアで制作いただいた作品です。

 
2021年 09月29日
大宰府展示館は10月1日(金曜日)より開館いたします
新型コロナウイルス感染拡大防止のために臨時休館しておりましたが、緊急事態宣言解除に伴い10月1日(金曜日)より開館いたします。
皆様のご来館を心よりお待ちしております。

大宰府展示館のご案内はこちらから

入館に際してのお願いはこちらから

緊急事態宣言の解除と今後の対応について(太宰府市)はこちらから
2021年 03月27日
Welcome to Dazaifu Exhibition Hall(大宰府展示館 英語案内)

Welcome to Dazaifu Exhibition Hall 大宰府展示館へようこそ

Dazaifu Exhibition Hall is dedicated to telling the story of Dazaifu. Thirteen centuries ago, Dazaifu was the administrative center of Kyushu, as well as a political, religious, and cultural powerhouse. The city was also Japan’s gateway to the outside world. As Japan was located at the eastern end of the Silk Road—the ancient trade route that connected the East to the West—the culture and goods that flowed through Dazaifu created a spirit of internationalism, sophistication, and scholarship that was rare in Japan at the time.
   Dazaifu Exhibition Hall tells the story of Dazaifu’s rich history. Discover how the area’s natural topography was exploited for defensive purposes; look at detailed dioramas of the palatial government offices and notice the distinctive Chinese influence; find out how the colors people wore were connected to their rank and occupation, and learn about the unusually varied cuisine enjoyed by residents of the city. The photo gallery highlights the ongoing excavation process that is revealing much of ancient Dazaifu.
   Dazaifu is closely related to the name of the Japanese era beginning in 2019, Reiwa. The naming of Reiwa has its origins in poems crafted at a plum blossom party that took place in Dazaifu in the eighth century.
   We hope you enjoy your journey back to the world of ancient Dazaifu.






Dazaifu Diorama: Natural Defenses 大宰府 再現ジオラマ 自然防衛
 
Dazaifu was Kyushu’s de-facto political and cultural center between the seventh and twelfth centuries. The city’s location was carefully chosen to take advantage of the topographical features of the area. The diorama shows how the surrounding mountains and landscape formed a natural bottleneck, offering a strong degree of protection from would-be invaders.
   Dazaifu’s proximity to mainland Asia made it a major diplomatic hub. The city was the first port of call for foreign delegations who docked in Hakata Bay. However, the government feared that its proximity to the sea rendered the city susceptible to attacks from foreign forces, as in the seventh century the Asian continent was a place of political unrest. Thus, it ordered the building of Mizuki—a defensive wall with an extensive moat that stretched over 1 kilometer—to thwart potential attacks from the coastal plain where the city of Fukuoka is now located. Fortresses were constructed to provide further protection, including Ono Fortress on the top of Mt. Shioji. You can still see the remains of these defenses today.
   When visiting dignitaries arrived in Dazaifu, they stayed in a special Guest House. The area outlined in yellow highlights this location. While the visitors were in residence, the Guest House was effectively an extension of their home country—somewhat similar to the case of foreign embassies today.


Model of the Dazaifu Government Offices 大宰府政庁の模型
 
This is how the Dazaifu administrative complex would have looked in the tenth century, a time defined by the Silk Road trade and strong ties with China and the Asian continent. Chinese influences can be seen in the aesthetics of the structures and in their symmetry, a common feature of Chinese palaces.
   The buildings were painted a bright vermilion, also known as Chinese red. The color carried associations with life and rebirth and was thought to ward off evil. The buildings were constructed following the Chinese philosophical theories of wuxing—a concept based around the interconnection of five phases or five elements—and feng shui. The main administrative hall was built facing south, which offered positive feng shui, and its location at the base of Mt. Shioji offered natural protection.
   The roofs of the halls featured onigawara “demon” tiles to scare off evil in a similar fashion to gargoyles on medieval cathedrals in the West. The onigawara on display was excavated in Dazaifu and the open maw and bulging eyes accentuate the creature’s wrathful features. Inside the halls, square and triangular tiles adorned with flower and plant imagery were used for the floors and stairs.
   The grounds where the administrative complex once stood are directly outside the Exhibition Hall. While only foundation stones remain today, it was once an expansive and grand complex befitting the powerful and cosmopolitan city of Dazaifu.



Color and Hierarchy in Dazaifu 大宰府の色と位階
 
Color was deeply symbolic in ancient Japan. Government officials wore certain colors based on their occupation and rank. The governor-general wore light purple, similar to the figure seen in the display. Those in other occupations also wore status-specific colors. Rank was also extremely important. It determined the eligibility for specific jobs in the bureaucracy as well as the right to wear designated colors. You can still see signs of this hierarchical system today in shrines across Japan, including at nearby Dazaifu Tenmangu and Kamado Shrine, where priests wear specific colors based on their rank.
   Belts were imbued with significance too. The ornate belt seen on the left in the display cabinet would have contrasted with plainer belts worn by lower-ranking officials. Ironically, these belts were worn beneath the clothing and therefore out of sight.
   The flat wooden tablets are mokkan. These were used for a variety of purposes, such as recording information about taxable goods. Mokkan were also eco-friendly. When no longer required, the thin layer of wood with writing on it would be shaved off with a sharp knife and the tablets re-used. This was a valuable feature at a time when paper was expensive and a scarce commodity.
   In the middle of the display, you can see an inkstone and a reproduction of an ink stick made from pine soot. The soot was kneaded together with glue and then fashioned into the boat-like shape seen here. It is possible that scribes of the day used writing equipment like this to record some of the poetry found in the Man’yoshu—a large and culturally important anthology of poetry from across Japan, including verse composed in Dazaifu.





Diorama of Eighth-century Dazaifu 8世紀の大宰府のジオラマ
 
This diorama depicts how the compact yet powerful city of Dazaifu was laid out in the eighth century. Dazaifu literally translates as “Great Government Administrative Headquarters,” and the city was a vital foreign trade hub, military stronghold, and government administrative center. However, Dazaifu was not devoted solely to politics. It also played an important role in Japanese culture and religion.
   At the far right of the diorama you will find Kanzeonji Temple as it used to look when it was an immense complex and the leading Buddhist temple in Kyushu. A handsome five-story pagoda once stood on the grounds, but this was destroyed along with numerous other buildings by natural disasters, and only a few structures (none of them original) remain today.
   A school adjacent to the temple educated boys from northern Kyushu, and these young scholars went on to become government officials stationed on the island. To this day, Dazaifu is considered a center of scholarship. Millions of high school students make pilgrimages to Dazaifu Tenmangu every year to pray to Tenjin—the spirit of scholar and politician Sugawara Michizane (845–903) who was enshrined there and regarded as the deity of learning. Students pray for his blessing and for success in their exams.
   The government offices were located at the foot of Mt. Shioji and benefitted from the natural protection of the mountain and Mizuki, the defensive wall and moat. This administrative center was a palatial complex with grand vermilion-painted structures and was modeled on Heijo-kyo, the imperial court and palace located in modern-day Nara. This diorama gives an idea of the scale of Dazaifu in the eighth century, but ongoing excavations are revealing more about the scale and history of this ancient city.



Revisiting Ancient Dazaifu 古代大宰府を再訪


Dazaifu was once a key center of government administration and international diplomacy. The area had strong cultural links with the Asian mainland and was a hub of new ideas and cultural developments. However, as control of the country fell into the hands of samurai and feudal lords in the twelfth century, the city’s influence waned. Excavations over the past five decades have revealed the scale of ancient Dazaifu, and archaeological digs and aerial photos provide a much clearer idea of Dazaifu’s former design and organization.
   After sites are excavated, they are filled-in and covered with grass to protect the remains, and the area is marked to show what lies beneath. This post-excavation process has the dual role of preserving the natural landscape and highlighting the history of the area. A few examples of the finds are deliberately left visible, such as this drainage ditch. The ditch dates to the early eighth century and has been preserved in its original location. The walls of the Exhibition Hall were built around it.
   The museum works closely with the local community, listening to concerns and ensuring the ongoing excavation work does not disrupt residents. It involves local residents in volunteer projects to help preserve and convey information about Dazaifu’s rich heritage and role in Japanese history.



Plum Blossoms and Poetry 梅花と詩
This diorama depicts a plum blossom party held at the official residence of Dazaifu Governor-General Otomo Tabito (dressed in purple) in 730. Government officials gathered under the plum trees—introduced from China and considered a rarity at the time—to eat, drink, and compose improvised verse together.
   This party has deep significance for Japanese culture. Thirty-two poems composed at this gathering can be found in the Man’yoshu (the oldest extant anthology of Japanese poetry, dating to the eighth century). The Reiwa era (2019–) was so named after modern-day Japanese government officials and historians were inspired by the kanji characters contained within the preface to these poems in the Man’yoshu.
   The seventh to twelfth centuries were a golden period in Dazaifu’s history. During this time, Dazaifu government officials had a keen understanding and appreciation of foreign cultures due to the city’s proximity to the Asian mainland and frequent interaction with other kingdoms. They were skilled in diplomacy and the military arts but were also expected to be accomplished poets. The plum blossom partygoers would have used their skills to improvise poems on such subjects as the blossoms, the weather, and the prevailing atmosphere of the gathering. An official scribe recorded the verses as they were recited.
   The Hakata Ningyo dolls in this tableau are very fine examples of pottery unique to Fukuoka. If you look closely, you can see plum blossoms in the sake cups and in the attendees’ hair. Note that the officials are wearing different colored garments indicative of their status.
   Plum trees have a special significance in Dazaifu. The grounds of Dazaifu Tenmangu Shrine are full of plum trees, including the fabled “flying” plum tree, tobiume. Legend tells the story of the plum tree of a Kyoto garden that uprooted itself and flew from Kyoto to Dazaifu to be close to Sugawara Michizane after the statesman and scholar was exiled from the city.
 
Who was Sugawara Michizane?
Sugawara Michizane (845–903) was a scholar and politician. After his death, his spirit was deified and enshrined at Dazaifu Tenmangu as Tenjin. He is known as a guardian of learning, culture, and the arts. Michizane had a particular liking for plum trees.



Dazaifu Food Culture 大宰府の食文化
Mokkan wooden tablets give us valuable insight into the food culture of eighth-century Dazaifu. Based on the information inscribed on tablets excavated in Dazaifu and Nara, the ancient capital, we have a good idea about what was consumed during this time.
   Foodstuffs, similar to the ones displayed here, were likely served at the “plum blossom party” in early 730. High-ranking officials were served the rich and varied spread on the left, while the more modest fare on the right was for lower-ranking participants.
   The menu for the most important guests included dried cuts of pheasant and salmon; ayu (sweetfish) sushi; abalone steamed in sake; various types of pickles; sea bream, squid, and other types of sashimi; and kusamochi, a traditional spring confection made from sweetened, pounded rice and the leaves of Japanese mugwort. Similar foodstuffs can still be found in Japanese teishoku (set meal) restaurants today.
   A few guests can be seen raising sake cups in the party diorama. Sake played a pivotal role at the party—as it does today at hanami parties celebrating cherry blossoms—and likely helped fuel the creativity of the guests as they crafted their poetry.



Reiwa—the dawn of an era 「令和」-時代の始まり
In Japan, a new era is born whenever an incoming emperor ascends the Chrysanthemum Throne. The Reiwa era began in May 2019, but the roots of its name are linked to the famous plum blossom party depicted in the diorama. Thirty-two poems composed at the party, along with a descriptive preface, appear in the Man’yoshu—the oldest extant collection of classical Japanese poetry. The two kanji characters that make up the era name, “Rei” and “Wa,” are taken from the preface. The meaning of the second character, “wa,” is unambiguous: “tranquility” or “harmony.” The first character, “rei,” typically means “command” or “order” in modern Japanese, but in the Man’yoshu passage in question, it means “beautiful,” “fine,” or perhaps “auspicious.” The poem begins as follows:


   It was the fine (rei) month of the advent of spring

   The air was clear and gentle (wa) breezes were blowing….


   Arguably, this passage seeks to capture the buoyant mood of not just the flowering of the plum trees but contemporary society as the author sees it. It is perhaps significant that the verses were written in Dazaifu, an area known for welcoming foreign cultures. In this sense, the nuance behind the characters for Reiwa offers a positive take on Japanese society and the future, hinting at an ethos of optimism, strong international relations, globalization, and appreciation for different cultures.



この英語解説文は観光庁の地域観光資源の多言語解説整備支援事業で作成しました。
This English-language text was created by the Japan Tourism Agency.
2020年 03月18日
おうちで「だざいふ」チャレンジ!牛乳を使って、古代の「蘇(そ)」を作ってみよう♪

〔おうちにいるみんなへ〕

 新型コロナウイルスが広まって学校などがお休みになってしまいました。
 そこで、お休みのあいだの時間を使って、おうちで牛乳を使ってかんたんに出来る「蘇(そ)」作りにチャレンジしてみませんか?
 むかしの人たちが食べていた「蘇」って一体どんな味がするのでしょう?
 その味は出来てからのお楽しみです♪
 

【保護者の皆様へ】
 福岡県では新型コロナウイルスの感染拡大を防止するため学校が一斉休校となっています。
 公益財団法人である古都大宰府保存協会は大宰府の歴史や文化を広く発信していくことを事業の1つとしておりますが、今回の長期間の休校をうけ、子供たちが自宅で太宰府の歴史や文化などに親しみながらチャレンジできることを何かご提案できないか、という思いから様々な取り組みを行っています。
 今回ご紹介する「蘇」は、1000年以上前の人々が食べていた古代食の一つです。学校が休校となり給食用の牛乳が余るなか、牛乳とホットプレートと1時間程度の作業時間があれば簡単にご家庭で出来るものです。ぜひこの機会に試してみてはいかがでしょうか。
 

◆準備するもの
・牛乳 適量
(煮詰めていきますので、出来上がりは元の量の大体10分の1くらいになります)
(本コーナーでは1リットルのものを使用しています)
・ホットプレート
(ガスコンロ等でも調理可能ですが、お子様とチャレンジされることを想定し、火を使わないホットプレートなどを推奨しております。また、ホットプレートは複数使用されますとブレーカーが落ちやすくなりますので、複数で作る際はご留意下さい)
・牛乳をかき混ぜるヘラなど

※調理時間の目安 1時間程度


〔保護者の皆様へ〕
太宰府市にあります永利牛乳は、市内の学校をはじめ福岡県内9市3町の学校給食へ牛乳を届けている会社です。給食の時間に飲まれた記憶がある方も多いのではないでしょうか。
現在、太宰府市では「ふるさと納税」などを通じて休校中における生産活動の支援をしておりますので、永利牛乳株式会社太宰府市「ふるさと納税」関連ページもあわせてご覧頂ければ幸いです。



蘇とは?
 「蘇(そ)」は「酥(そ)」ともいわれるもので、むかしの人たちが牛乳を煮つめて作って食べていたものです。
 今から1200年前の平安時代(へいあんじだい)につくられた『和名抄(わみょうしょう)』という辞書には、酥(そ)は牛などの乳から出来ているということが書かれています。
 同じ平安時代の『延喜式(えんぎしき)』という法律をまとめたものには、「蘇(そ)」の作り方が書いてあります。
(『延喜式』「民部下」) 作蘇之法、乳大一斗煎、得蘇大一升
 少し文章が難しいですが、大1斗(約7.2ℓ)を煎じる(煮つめる)と大1升(約720㎖)の蘇を得られるということが書いてあり、蘇は牛乳をあたためて10分の1まで煮つめて作っていたようです
(※「升」や「斗」は当時使われていた量の単位で、大1升を10倍すると大1斗になります。詳しくは後ほどご紹介していますので合わせてご覧ください)
 
 今から1000年以上前の奈良時代や平安時代は牛乳がとても貴重でしたので、その牛乳を10分の1まで煮つめる蘇はもっと貴重でした。そのため蘇は天皇(てんのう)や貴族(きぞく)などが食べるとても豪華な食品でした。
 また、栄養満点の牛乳から作るので、むかしの人たちは病気の時にも食べていたようです。その他にも、仏さまへのお供えものとしてお坊さんたちにも大事にされていたようです。
 やがて蘇は日本全国で作られるようになり、大宰府からも都へたくさんの蘇が運ばれていた記録が残っています。
 
 ただ、残念なことに蘇の詳しいレシピは残っていません。ナゾの多い蘇を、ぜひ自分で作ってどんな味がするのか確かめてみましょう!


蘇を作ってみよう! 蘇の作り方
ホットプレートを180℃~200℃前後に温める

用意していた牛乳を流し込む


あとは牛乳が焦げないようにかき混ぜつつ、粘り気が出るまで煮つめる

 
ポイント1
 ホットプレートの縁などに付いてしまった牛乳は、焦げないうちに内側に削いで「だま」にならないようにかき混ぜましょう。また、かき混ぜないと表面に膜が出来てしまうので、固まらないよう気をつけてかき混ぜましょう。

ポイント2
 焦げ目が少ないと、風味が良く、美しい乳白色に出来上がります


出来上がるまでは1時間前後かかります。「蘇」についての色々なお話を下の方に載せていますので、牛乳をかき混ぜながら「蘇」のことをさらに知ってみましょう♪

 
1時間程煮つめていると牛乳の水分が飛んで、粘り気が出てきます。さらに固まってきたら、最後はサランラップなどにくるんで形を整えましょう。サランラップの空き箱などを使うと四角い形にするのに便利です。
 

熱が冷めて固まったら、お好きな形に切り分けて食べましょう♪

(※温かいままでも美味しく食べられます。形を整えて切る場合は冷蔵庫で1時間ほど冷やすと切りやすくなります)
 お好みでトッピングをするとより美味しくなるかも?
 1300年前の人たちも食べていた「蘇」をどうぞお召し上がり下さい。
 



蘇を煮つめてかき混ぜる間のよもやま話
蘇が出来上がるまで1時間ほどかかります。
牛乳をかき混ぜている間、蘇にまつわる色々なお話をみてみましょう♪
 
○蘇を食べる時はどんな時?
 
公益財団法人古都大宰府保存協会所蔵 饗宴(きょうえん)の膳(ぜん)と蘇(そ)の再現模型

博多人形による「梅花の宴」再現ジオラマ(山村延燁作)
 

 貴族の人たちが開く宴会(えんかい)など色々な時に食べられていたようです。
 天平2(730)年1月13日に大宰府で行われた「梅花の宴(ばいかのえん)」は、みんなが使っている元号(げんごう)「令和(れいわ)」の由来となった行事ですが、その時の食事でも出されていたと考えられています。大宰府展示館では、その時の食事の模型を展示していますので、新型コロナウイルスが治まったらぜひ遊びに来てください。
 
 また、栄養満点の牛乳から作られた蘇は病気の人が元気になるためにも食べられていたようです。
 中国の唐(とう)で作られた本で、遣唐使(けんとうし)の人たちが海を渡って日本へ持ち帰り、お医者さんの教科書として使われた『新修本草(しんしゅうほんぞう)』という本があります。
 この中で蘇は、内蔵をおぎなって、大腸を良くして、口の中のケガに効く食べ物として紹介されています。

 平安時代の貴族として有名な藤原道長(ふじわらのみちなが)は、長和5(1016)年に重い病気にかかりましたが、その時に薬として蘇と蜜(みつ)を煮たものを食べたことが記録にあります。このように蘇は薬のように使われてもいたようです。


○蘇の原料となった牛乳はいつから使われていたの?
 奈良時代に活躍した長屋王(ながやおう)という偉い人が住んでいた家の跡から「牛乳」と書かれた木簡(もっかん:木の板に墨で文字を書いたもの)が見つかり、1300年前の奈良時代から牛乳が使われていたことが分かりました。


○むかしは牛からどれくらい牛乳が採れたの?
 最初にもお話しした平安時代の『延喜式(えんぎしき)』という法律をまとめたものには、牛から採れる牛乳の量が書いてあります。
(『延喜式』「民部下」)其取得乳者、肥牛日大八合、痩牛半
 よく育った牛からは1日に大8合(約576㎖)、痩せた牛からはその半分(約288㎖)の牛乳が採れたようです。
 現在の乳牛はエサも美味しくなり、技術も進歩したので、平均して1日に20ℓ~30ℓほど採れるそうです。
 むかしの牛乳がとても貴重だったことが分かりますね!



★むかしの人たちが使っていた「量」
 じつは奈良時代などむかしの人たちが量るために使っていた「升(ます)」の大きさがどのくらいだったのか詳しく分かっていません。
 これまで色々な人たちが調べてきましたが、現在では沢田吾一(さわだごいち)先生が調べた「当時の大1升=現在の約4合(約720㎖)」ではないかと考えられています。
 このページでも沢田先生の計算に基づいてご紹介しています。

 
大1合  約72㎖
大10合 = 大1升
 
小1升  約240㎖
小3升  = 大1升
 
大1升  約720㎖
大10升 = 大1斗
 
大1斗  約7.2ℓ
 


○大宰府でも蘇を作っていたの?
 平安時代には日本各地で蘇が作られるようになりました。そこで日本全国を6つの地区に分けて6年に1回ずつ、それぞれの地区が担当して決められた量の蘇を都へ送っていたことが、何度もご紹介している『延喜式』に書かれています。
 大宰府は5番目の地区で、巳亥年(現在だと干支(えと)の「へび年」と「いのしし年」)の担当として、都へ70壺の蘇を送ることが決められていました。
 
大宰府が都へ納めていた蘇の量はどれくらい?
 
(『延喜式』「諸国貢酥番次」)
第五番巳亥年 大宰府 七十壺
十五口  各大一升
三十五口 各大五合
二十口  各小一升
 
大宰府から都へ送る70壺は、それぞれ大きさも決まっていました。
70壺のうち15個は大1升、35個は大5合、残りの20個は小1升だったようです。
 
これを計算すると、
15×約720㎖ = 約10.8
35×約360㎖ = 約12.6
20×約240㎖ = 約4.8ℓ
 
合計で約28.2ℓとなり、とても多くの蘇が都へと送られていた事が分かります。

 現在の太宰府市には九州一帯をまとめる「大宰府(だざいふ)」という役所がありましたので、九州各地で作られた蘇は、まず大宰府に送られて、大宰府でまとめてから都へと送られていきました。
 
 ただし、牛乳がよく採れるかは自然にも影響されますし、都から遠い大宰府ですので届くのが遅れることもあったようです。
 永延2(988)年の正月20日、摂政(せっしょう)という高い身分にあった藤原兼家(ふじわらのかねいえ)という人が、自宅で大きな宴会を開くこととなりました。そのため、朝廷(ちょうてい)から兼家に蘇が送られるはずでしたが届きませんでした。
 実は、この年の蘇を担当していたのは大宰府だったのですが、都に届くのが遅れていたようです。結局、大宰府からの蘇は20日夕方に都に到着し、翌21日に無事に兼家のもとへ届けられました。


主な参考文献
白崎昭一郎「蘇について」1982年 『日本医史学雑誌』28巻
永山久夫『日本古代食事典』1998年 東洋書林
佐藤健太郎「古代日本の牛乳・乳製品の利用と貢進体制について」2012年 『関西大学東西学術研究所紀要』45巻

◇蘇つくりの写真
太宰府市でむかしの人たちが食べていた物や歴史、文化を研究(けんきゅう)している「常若の会(とこわかのかい)」のみなさんが作っているところにお邪魔して撮らせていただいたものです。(2018年7月18日撮影)
 
 


〔更新履歴〕
・2020年3月18日 公開開始
・2020年3月19日 数量の表記間違いを修正・大宰府から送られていた蘇の量を追記
2019年 08月12日
大宰府条坊 客館周辺 再現ジオラマ  古代の大宰府を覗いてみよう2!!

※2021年11月12日より、新たなジオラマ「大宰府条坊イメージジオラマ」と統合した展示へと変更いたしております。

大宰府(だざいふ)条坊(じょうぼう) 客館(きゃくかん)周辺(しゅうへん) 再現(さいげん)ジオラマ
時代:8世紀後半 製作:森野(もりの)(はる)(ひろ)

古代大宰府の街並みは、地方最大の役所であった「大宰府(だざいふ)」を中心として広がっていました。様々な人や物が行き交い、海外との交流も盛んであった大宰府は大変(にぎ)やかな都市だったようで、769年に大宰府から都へ出された申請書には、「この府、人物(いん)(ぱん)にして、天下の一都会なり」と記されています。
古代大宰府の全容(ぜんよう)は未だ明らかではありませんが、今回、森野氏に発掘調査報告書などを基に、推定などを含めながら8世紀後半頃における大宰府の街並みの中心部分を製作いただきました。
朱雀(すざく)大路(おおじ)を中心に広がる街並み、客館(きゃくかん)での儀礼(ぎれい)の風景、道を行き交うたくさんの人々や暮らしの様子など、再現された活気あふれる街並みを是非ご覧ください。



朱雀(すざく)大路(おおじ)街並(まちな)
朱雀大路は、大宰府の街並みを中央にはしる大きな道です。大宰府政庁(せいちょう)の南側に位置する朱雀門からまっすぐ南へと延びており、その幅は現在の高速道路だと10車線分にあたる幅36mほどありました。
朱雀大路の両側には、90m四方(しほう)に区画された条坊制(じょうぼうせい)の街並みが広がっていたようです。区画の中はさらに分割されて、多くの家が建ち並び、人々が生活していたようです。「天下之一都会」ともいわれた古代大宰府の賑わいがうかがえます。

多くの人々が行き交う朱雀大路の左右には街並みが広がっていました。


高官(こうかん)たちの(やかた)
大宰府の街並みのメインストリートであった朱雀大路沿いには、大宰府で働く身分の高い役人(高官(こうかん))の(やかた)があったようです。
ジオラマで再現された時代から約100年後、901年に大宰府へと流された菅原道真(すがわらのみちざね)は高官用の館に滞在しましたが、手入れも悪く大変荒れ果てた様子だったようです。
この館は「
()南館(なんかん)」と呼ばれ、後に榎社(えのきしゃ)が建立されました。
また、周辺からは高官だけが
着用(ちゃくよう)を許された白玉帯(はくぎょくたい)(かざ)りなども出土(しゅつど)しています。


ジオラマでは便宜上(べんぎじょう)、大宰府において長官(ちょうかん)である(そち)に次いで高官であった「大弐(だいに)」「少弐(しょうに)」の館として再現しています。


客館(きゃくかん)
客館(きゃくかん)とは、外国からの使節(しせつ)たちが滞在(たいざい)するための施設(しせつ)です。
古代における大宰府は、外国とのやりとりを行う窓口として重要な役割を(にな)っていたため、政庁(せいちょう)で外交儀礼(ぎれい)などが行われました。
海を渡ってやってきた外国の使節たちは、博多湾(はかたわん)沿いの筑紫館(つくしのむろつみ)鴻臚館(こうろかん))にまず向かい、その後、(かん)(どう)を進み、(みず)()の西門を通り、大宰府の街並みへ南側から入り、客館に滞在しました。
客館跡では青銅(せいどう)で出来たお(わん)や皿、スプーン、貴重な陶磁器(とうじき)などが見つかっており、豪華(ごうか)なおもてなしが行われていたようです。

客館では大宰府の役人(左列)と外国の使節団(右列)が対面しているようです。


ジオラマで巡る古代大宰府の旅はいかがだったでしょうか?このコーナーでは、今後も少しずつご紹介する場所を増やしていく予定です。
 ご紹介した以外にも、太宰府には古代にゆかりある様々な遺跡が残っています。ぜひ散策しながら、古代の大宰府に想いを馳せてみてはいかがでしょう。


 
2019年 07月01日
大宰府政庁周辺 再現ジオラマ  古代の大宰府を覗いてみよう!!

※2021年11月13日より、新たなジオラマ「大宰府条坊イメージジオラマ」と統合した展示へと変更いたしております。



大宰府(だざいふ)西海道(さいかいどう)九国三島(きゅうこくさんとう)(後に二島)を統括(とうかつ)し、対外的な役割も担った地方最大の役所でした。昭和43年から始まった発掘調査によって、往時には大宰府政庁(せいちょう)を中心として、周辺一帯に数多くの関連(かんれん)施設(しせつ)があったことが明らかになってきました。
大宰府展示館で展示している大宰府政庁周辺再現ジオラマは、森野(もりの)(はる)(ひろ)氏が8世紀後半頃の大宰府を、発掘調査報告書などを基に精密に製作されたものです。建物だけではなく、政庁で行われている儀式(ぎしき)や各所で働く役人達なども再現いただきました。
(よみがえ)った古代大宰府の様子をぜひご覧ください。

〔製作にあたり〕
大宰府展示館の方々をはじめ、関係者の皆様からのご支援により、大学生の頃から興味のあった8世紀後半の大宰府政庁周辺のジオラマを製作することができました。独自の解釈で製作した部分もありますが、古都大宰府にタイムスリップし、散策を楽しんでいただければ幸いです。ご支援いただいた関係者の皆様に厚く感謝申し上げます。     
                            平成30年11月10日 森野晴洋

◆古代大宰府を歩く

  それではジオラマで再現された8世紀後半の大宰府を探訪してみましょう♪


1.朱雀門(すざくもん)
大宰府政庁の正面には正門である朱雀門があったと考えられており、政務(せいむ)を行う空間と南側に広がる街並みを区切っていたようです。
朱雀門の跡は確認されていませんが、1982年に行われた御笠川(みかさがわ)での河川工事の際、川底から大きさ2.4m.8m、厚さ1.3m、重さ7.5tもある巨大な礎石(そせき)が見つかったことから門の存在が推測(すいそく)されています。

 
門の前には警固(けいご)の兵士が立ち、通る人々をチェックしていたようです。
右側の写真は、展示館から歩いて5分ほどの
朱雀(すざく)大路(おおじ)交差点そばに置かれている朱雀門礎石です。



2.前面(ぜんめん)広場(ひろば)地区(ちく)
朱雀門の北側から大宰府政庁の入口である南門にかけては広場があったことが発掘調査で分かっています。広場を作るため、谷筋を埋め立てるなど大規模な整地作業が行われたようです。
 
朱雀門を過ぎると広場となっており、正面には大宰府の中心である政庁が見えてきます。

広場には、九州各地からの税を運ぶ人々が行き来しているようです。また、広場の(すみ)では警固の役人たちが皆で鍛錬(たんれん)を行っている様子がうかがえます。


3.大宰府(だざいふ)政庁(せいちょう)
九州全体を治めていた地方最大の役所・大宰府(だざいふ)ですが、その中心的な建物を政庁(せいちょう)といいます。政庁では、左右に2つずつ並ぶ(わき)殿(でん)正殿(せいでん)などで政務が行われていました。また、建物に囲まれた中央の広場では儀式(ぎしき)などが行われていました。

 
ジオラマを(のぞ)いてみると、広場では紫の服を着た長官である(そち)が、役人たちを一同に集めて訓示(くんじ)などをしているようです。
また、重要な施設である政庁を警護(けいご)するため、南門(なんもん)の前には兵士たちが立っています。

  
おや?南門の右手から御供(おとも)を連れた女性が桃色の傘を差して歩いてきています。その様子から身分の高い方のようです。もしかすると長官である大宰帥の奥様かもしれませんね。
現在の大宰府政庁跡


大宰府(だざいふ)政庁(せいちょう)周辺(しゅうへん)官衙(かんが)
大宰府には様々な仕事を行う官衙(かんが)(役所)が19あったと考えられており、その多くは政庁周辺に置かれていたようです。発掘調査が進められていく中で、大宰府政庁周辺に存在していた官衙(役所)の様子が分かってきました。政庁の周辺に広がる地区を見ていきましょう。


【大宰府政庁周辺の官衙関連地区一覧】

大宰府の主な組織
主神司(神祇祭祀)      防人司(防人の管理監督)
蔵司 (調庸物の出納)    税司 (正税等の出納)
匠司 (営繕・手工業生産)  主船司(船舶の修理)
主厨司(食材の調達)     薬司 (医療・医薬の管理)
城司 (大野城等の管理)   学校院(役人の養成)
府政所(大宰府の事務の統轄) 国政所(筑前国兼帯の国務)
貢上染物所(貢納物の染色)  作紙所(紙の生産)
警固所(外敵防備)      修理器仗所(兵器の修理)
兵馬所・兵馬司(兵馬の管理) 大帳所(計帳の管理)
公文所(公文書の保管)    貢物所(貢納物の弁備)
蕃客所(外国使節の応接)・大宰府鴻臚館


4.蔵司(くらつかさ)地区(ちく)
大宰府(だざいふ)政庁(せいちょう)周辺(しゅうへん)(そん)(ざい)していた官衙(かんが)(役所)のうち、まずは政庁西側にある蔵司地区をみてみましょう。 
古代において西海道(さいかいどう)(九州)を統括(とうかつ)していた大宰府には様々な役所がありました。その1つに九州各地からの税物(ぜいぶつ)出納(すいとう)や大宰府の財政を管理した「蔵司(くらのつかさ)」という役所がありました。
大宰府政庁のすぐ西側にある丘陵は、地元で「くらつかさ」と呼ばれており、建物の柱の土台となる礎石(そせき)も数多く残っていたことから、「蔵司」はここにあったのではと考えられてきました。
現在、九州歴史資料館(きゅうしゅうれきししりょうかん)による発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)が行われており、この場所にかつてあった「蔵司」の様子が徐々に明らかになってきています。
蔵司地区は現在も発掘調査が行われておりますので、自由な一般見学は出来ません。現地説明会などの機会をぜひご利用下さい。)

 


 

ジオラマを(のぞ)いてみると、ちょうど荷車で運んできた大量の荷物を下ろす作業が終わったようです。疲れた人々の横で、青色や黄色の服を着た役人たちが荷物の内容を確認しているようです。
また、隣にある倉庫に囲まれた場所では、黄色の服の役人が、荷物の運び先などの指示を出しているようです。

5.不丁(ふちょう)地区(ちく)
大宰府政庁の南側、前面広場の西側に位置するのが不丁地区です。
ここでは、発掘調査によって大規模な建物・(さく)区画(くかく)(みぞ)・井戸などが確認されました。
また、地中からは190点ほどの木簡(もっかん)が出土しており、紫草(むらさき)に関するものも多いことから染色(せんしょく)工房(こうぼう)(貢上染物所)があったのではと考えられています。
その他にも、墨で文字が書かれた墨書(ぼくしょ)土器(どき)も多く出土しており、記されていた「政所」などの文字から、行政的(ぎょうせいてき)事務(じむ)を取りまとめる役所があったとも考えられています。


 

ジオラマを(のぞ)いてみると、生産された製品を黄色の服の下級役人が確認しているようです。無事にチェックが終わった物から積み込みや運び出しが行われているようです。

大宰府政庁跡交差点そばには、旧小字(きゅうこあざ)不丁(ふちょう)」を示した石柱(せきちゅう)が残っています。

6.大楠(おおくす)地区(ちく)
不丁(ふちょう)地区(ちく)の西側には大きな(みぞ)SD320)を挟んで大楠地区があります。これまで大楠地区は官衙(かんが)(役所)ではなく役人たちが住む地域と考えられてきましたが、発掘調査によって大規模な建物が地区の南北で見つかり、溝や柵なども確認されていることから、官衙があったと考えられるようになってきました。
大楠地区周辺では、「烏賊(いか)」、「(きたい)」(干物の一種)と書かれた木簡(もっかん)、「厨」と読める墨書(ぼくしょ)土器(どき)、移動式の(かまど)などが見つかっており、大宰府の食を司った役所「主厨司」が存在していたのではないかと考えられています。
 

 
ジオラマを(のぞ)いてみると、なにやら大勢の人々が忙しそうに働いています。北側では荷物を運ぶ人々の姿が見え、建物の前にはたくさんの(つぼ)(かめ)が並べられて確認作業が行われているようです。各地から運ばれた食材の数々が詰まっているのでしょうか。
一方、南側では大きな容器を大切そうに運ぶ2人組みの姿が見えます。もしかすると食事として皆に出される(あつもの)(温かい汁物(しるもの))をこぼさないよう慎重に運んでいるのかもしれません。

7.月山(つきやま)月山東(つきやまひがし)地区(ちく)
大楠(おおくす)地区の次は、政庁を挟んで反対側の東側にある地区をみていきましょう。
大宰府展示館の北側に隣接する丘陵(きゅうりょう)月山(つきやま)です。地元では、漏刻(ろうこく)(水時計)が設置されていたと伝えられています。大宰府は774年には漏刻が設置されていたことが『続日本(しょくにほん)()』にみえますので、もしかすると月山から時を告げる音が大宰府の街並みに(ひび)いていたかもしれません。
大宰府展示館や月山の東側に広がるのが月山(つきやま)東地区(ひがしちく)です。発掘調査によって複数の建物や東西約110m・南北約70mに(およ)(さく)が確認されました。政庁に隣接する大規模な遺跡であることから、梅花(ばいか)(えん)を開催した大伴旅人(おおとものたびと)邸宅(ていたく)候補地(こうほち)の1つとされています。

 

ジオラマを(のぞ)いてみると、建物の広場にたくさんの人々が集まっています。広場に立てられた旗を中心に、(えん)を描く人々が(にぎ)やかに()(がく)舞楽(ぶがく)を演じている様子を皆で楽しんでいるようです。
大宰府展示館を出てすぐ東側には、発掘調査で確認された建物の柱や柵の列の跡などが再現されています。

8.日吉(ひよし)地区(ちく)
大宰府政庁の南東側、月山東地区から見ると南側にあるのが日吉地区です。
発掘調査でコの字形(じがた)の大規模な建物跡が確認され、文字を書くのに不可欠な(すずり)が130点ほど出土していることから、事務(じむ)が主な業務(ぎょうむ)である役所だったようです。

 
ジオラマを(のぞ)いてみると、中央では役人たちが集まって打ち合わせをしているようです。担当者である青色の服の役人が、今日の業務(ぎょうむ)内容(ないよう)について指示(しじ)を出しているのかもしれません。
また、地区の南では大宰府の高官(こうかん)(だい)()少弐(しょうに))である赤い服を来た役人を中心に、役人たちが武術(ぶじゅつ)の試合を見守っているのでしょうか。腕利(うでき)きの役人たちが日頃の鍛錬(たんれん)の成果を披露(ひろう)しているようです。

9.学校院(がっこういん)
大宰府(だざいふ)政庁(せいちょう)の東側には、役人を養成(ようせい)する機関(きかん)である学校院(がっこういん)があったと考えられています。
1971年に発掘調査が行われましたが、当時の(くわ)しい状況は分かっていません。
当時は(くに)(ごと)に機関が置かれましたが、筑前(ちくぜん)筑後(ちくご)肥前(ひぜん)肥後(ひご)豊前(ぶぜん)豊後(ぶんご)の6ヵ国は大宰府へ来て学びました。学校院では、中国の書物を教科書として、役人に必要な政治・医術(いじゅつ)算術(さんじゅつ)・文章などの知識を学んでいました。一時期は約200人が学んでいた記録もあることから、学問の中心地として(にぎ)わったようです。
  
 
ジオラマを(のぞ)いてみると、どうやら緑色の服を着た教官(きょうかん)博士(はかせ)に、学生たち講義(こうぎ)で分からなかったところを質問しているようですね。
国史跡大宰府学校院跡 現在の風景

10.観世音寺(かんぜおんじ)
観世音寺(かんぜおんじ)天智(てんじ)天皇(てんのう)が母・斉明天皇(さいめいてんのう)菩提(ぼだい)(とむら)うため発願(ほつがん)したお寺です。「府の大寺」と呼ばれた大寺院で、境内には国宝の梵鐘(ぼんしょう)をはじめ、天平(てんぴょう)石臼(いしうす)碾磑(てんがい))や五重塔(ごじゅうのとう)礎石(そせき)などが現在も残ります。また、宝蔵(ほうぞう)には5mを超える馬頭(ばとう)観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)立像(りゅうぞう)をはじめ、16体の尊像(そんぞう)(重要文化財)が安置されており、西日本随一の仏教美術を見学することが出来ます。

当時の観世音寺は、境内の東側に菩薩院(ぼさついん)、西側に僧侶(そうりょ)戒律(かいりつ)(さず)けるための戒壇院(かいだんいん)があり、北側にはたくさんの僧侶たちが生活する巨大な僧房(そうぼう)がありました。
また、東側には大衆院(たいしゅういん)と考えられる東院(とういん)、西側には政所院(まんどころいん)と考えられる西院(さいいん)と呼ばれる場所があり、観世音寺の寺院活動や僧侶の生活を支える施設として機能していたようです。
 
ジオラマを(のぞ)いてみると観世音寺の境内にたくさんの僧侶が集まっているようです。これから大切な法要(ほうよう)などが行われるのでしょうか。
また、戒壇院には僧侶たちが規律(きりつ)正しく並んでいます。戒律(かいりつ)を授かるための準備をしているのかもしれませんね。



ジオラマで見る古代大宰府はいかがだったでしょうか。古代の大宰府は、政庁を中心とした様々な役所をはじめ、教育機関や寺院などが建ち並ぶ一大都市でした。「天下之一都会」ともいわれた往時の大宰府の様子を、ジオラマを通じて知って頂ければ幸いです。
太宰府市には今回ご紹介した以外にも古代にゆかりある様々な遺跡が残っています。ぜひ現地を散策しながら、古代の大宰府に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。
2019年 06月21日
入館料の免除について(令和元年7月1日~)
大宰府展示館有料化(令和元年7月1日~)における入館料の免除について

入館料が免除となる主な事由は以下のとおりです。

● 学校教育法に規定する学校の児童、生徒等及びこれらの引率者が学校教育活動に基づき入館する場合
● 身体障害者福祉法の規定に基づき身体障害者手帳の交付を受けている者が入館する場合
● 療育手帳制度要項に基づき療育手帳の交付を受けている者が入館する場合
● 精神保健及び精神障害者福祉に関する法律に基づき精神障害者保健福祉手帳の交付を受けている者が入館する場合
● 障害者等の介護人1名が入館する場合

 
2019年 05月01日
元号「令和」ゆかりの地 太宰府
元号「令和」ゆかりの地 太宰府

         古代九州を統括した地方最大の役所・大宰府政庁跡の風景

目次
 1.元号「令和」と太宰府
 2.『万葉集』と「梅花の宴」
   ・梅花の歌三十二首序文について
   ・「梅花の宴」の舞台となった大伴旅人の邸宅について
   ・市内の万葉歌碑ご紹介

 
1.元号「令和」と太宰府
 
 平成31年4月1日、日本政府は新たな元号を「令和(れいわ)」と決定しました。
 天皇陛下即位に合わせ5月1日から使用される「令和」は、645年の「大化」から数えて248番目の元号となります。
 「令和」の典拠は、1200年余り前に編纂された日本最古の歌集『万葉集』に収められた「梅花の歌三十二首 序文」にある、
 
 初春の月にして(しょしゅんのれいげつにして)、
 気淑く風ぎ(きよく かぜやわらぎ)、
 梅は鏡前の粉を披き(うめは きょうぜんのこをひらき)、
 蘭は珮後の香を薫ず(らんは はいごのこうをくんず)。
 
の文言を引用したもので、「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味が込められた元号となっています。

 かつて太宰府には、7世紀後半から12世紀前半にかけて地方最大の役所「大宰府」が置かれ、西海道(九州一帯)の統治、対外交流の窓口、軍事防衛の拠点という重要な役割を担っていました。大宰府の長官は大宰帥(だざいのそち)と呼ばれ、大伴旅人(おおとものたびと)は727年ごろ大宰府へ赴任しました。
 大伴旅人は政治家としてだけでなく、歌人としても才を発揮した人物で、赴任した大宰府においても文人たちと交わり、山上憶良(やまのうえのおくら)らと共に優れた歌を残しました。後に「筑紫万葉歌壇」と呼ばれる華やかな万葉文化が、大宰府の地に花開いたのです。
 天平2年(730年)正月13日、大伴旅人は自身の邸宅に大宰府や九州諸国の役人らを招いて宴を開催しました。当時、中国から渡来した大変高貴な花であった梅をテーマに歌を詠んだことから「梅花の宴」と呼ばれています。今回、元号「令和」の典拠となった文言は、この「梅花の宴」で詠まれた32首の歌の序文になります。

大宰府展示館では、博多人形師・山村延燁(やまむらのぶあき)氏が製作した博多人形による「梅花の宴」の再現展示をしています。優雅な姿を是非ご覧ください。
 
「だざいふ」の
律令制下の役所を指す場合は「宰府」と「」を用い、現在の行政名「宰府市」や「宰府天満宮」には「」を用いています。


 
2.『万葉集』と「梅花の宴」

 『万葉集』は8世紀後半頃に成立した日本最古の歌集といわれ、約4500首の歌が収められています。天皇・皇族をはじめ、貴族など上流階級の人々だけでなく、防人(さきもり)や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められており、日本の豊かな文化と長い伝統を象徴する歌集です。
 『万葉集』を編集したのは、「梅花の宴」を開催した大伴旅人の息子・大伴家持(やかもち)といわれています。宴で詠まれた歌をはじめ、九州にまつわる歌が300首以上収められており、家持が少年時代を過ごした大宰府の風景や「梅花の宴」が強く印象に残っていたのかもしれません。

『万葉集』(写本)  書写・寄贈 陶山雪代氏
梅花の歌三十二首序文の収められている巻五を中心に展示しています。

梅花の歌三十二首序文について
 「梅花の宴」は、中国の書家・王羲之(おうぎし)が353年に開催した「曲水の宴」にならって、日本の和歌を詠み交わした宴です。ここで詠まれた和歌のはじめに序文がつけられていますが、これも王羲之が記した序文「蘭亭序(らんていじょ)」にならい、日本人の感性や趣向を基に白い梅花を詠む宴の序文として、大伴旅人が作ったとみられています。

 

天平二年正月十三日、(そち)(おきな)(いへ)(あつ)まりて、宴会を(ひら)きき。時に、初春の月にして、気()く風(やはら)ぎ、梅は鏡前の粉を(ひら)き、(らん)珮後(はいご)(かう)(くん)ず。加之(しかのみにあらず)、曙の嶺に雲移り、松は(うすもの)を掛けて(きぬがさ)を傾け、夕の(くき)に霧結び、鳥は(うすもの)()められて林に(まと)ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。ここに天を(きぬがさ)とし、地を(しきゐ)し、膝を(ちかづ)(さかづき)を飛ばす。(こと)を一室の(うら)に忘れ、(ころものくび)を煙霞の外に開く。淡然(たんぜん)に自(ほしきまま)にし、快然に自ら足る。若し翰苑(かんゑん)あらぬときには、何を以ちてか(こころ)()べむ。請ふ落梅の篇を(しる)さむ。古と今とそれ何そ異ならむ。園の梅を()して(いささ)かに短詠を成す()し。

                          参考文献:太宰府市『太宰府市史 文芸資料編』
 

天平二年(730)正月13日、帥老の宅に集まって宴会を開く。あたかも初春のよき月、気は麗らかにして風は穏やかだ。梅は鏡台の前のお白粉のような色に花開き、蘭草は腰につける匂袋のあとに従う香に薫っている。しかも、朝の嶺には雲が動き、松は雲の薄絹を掛けたように傘を傾ける。また夕の山洞には霧が立ちこめ、鳥は霧の縮み絹に閉ざされたように林に迷い飛ぶ。庭には生まれたばかりの蝶が舞い、空には去年の秋に来た雁が北に帰って行く。さてそこで、天空を覆いとし大地を敷物としてくつろぎ、膝を寄せ合っては酒盃を飛ばす如くに応酬する。一堂に会しては言葉を忘れ、美しい景色に向かっては心を解き放つ。さっぱりとして心に憚ることなく、快くして満ち足りている。詩歌を他にして、この思いを何によって述べようか。詩には落梅の篇を作るが、古も今もどんな違いがあろう。さあ、園梅を詠んで、ここに短き歌を試みようではないか。    
                          参考文献:岩波書店 新日本古典文学大系『萬葉集



「梅花の宴」の舞台となった大伴旅人の邸宅について
 「梅花の宴」の舞台となった大伴旅人の邸宅については、現在まではっきりとした事は分かっておらず、幾つかの説があります。
 邸宅があったと伝えられる大宰府展示館東側の月山東地区官衙、大宰府政庁跡の西北に鎮座する坂本八幡神社一帯、大宰府条坊の中などの場所をご紹介いたします。

 
その1 月山東地区官衙跡
 大宰府展示館の東側にはコンクリートの柱が立てられていますが、これらの柱は発掘調査で確認された建物や柵の柱を再現したものです。月山東地区の発掘調査では、複数の建物跡やそれら建物を囲むような東西の約110m・南北約70mの規模の柵が確認されており、大宰府政庁に隣接する場所に大規模な区画で建物が建てられていたことがうかがえます。
 また、大宰府展示館で公開されている玉石敷の溝は、通常の溝と違い、石が綺麗に敷き詰められた構造のため、太宰府天満宮で行われている曲水の宴のような特別な儀式や行事に使われたのでは?とも考えられています。
 これらのことから、大宰府の長官であった帥の邸宅だったのでは?といわれている場所の1つとなっています。
 
月山東地区官衙跡 遠景           森野晴洋氏製作 大宰府政庁周辺復元ジオラマの月山東地区官衙
 大宰府展示館内の玉石敷きの溝

その2 坂本八幡神社周辺
 坂本八幡神社は、坂本地区の土地神、産土神として祀られている神社で、祭神は応神天皇です。はっきりとした由緒は分かっていませんが、『福岡県神社誌』には「天文・弘治年間の頃勧請…」とあり、戦国時代に勧請されたと伝わります。現在も坂本地区の方々、氏子会の方々によって神戻しや宮座など様々な神事が行われています。
 この坂本八幡神社周辺一帯が、地元では古くから大伴旅人の邸宅があったと伝えられてきました。付近には「大裏(だいり)」という地名がありますが、古代には天皇がいた空間を内裏(だいり)と呼んでいました。太宰府には、落ち延びる平氏とともに安徳天皇が来られた記録もありますが、大宰府の内裏として身分の高い人が住んでいたとでは?というところから、大宰帥・大伴旅人と結びついていったようです。
 周辺地域は昭和47年、61年・62年に発掘調査が行われ、掘立柱建物跡や鍛冶工房の跡を示すような出土物が出ましたが、長官クラスの大規模な建物跡などはまだ確認されていません。今後、発掘調査が進むと旅人の邸宅跡が姿を現すのかもしれません。
 
坂本八幡神社                境内の万葉歌碑(大伴旅人)
 
坂本八幡神社の様々な行事(左:春籠もり 右:神戻し)

その3 大宰府条坊 榎社・客館周辺
 榎社はかつて、府の南館と呼ばれた菅原道真公の配所の跡で、菅原道真公が大宰権帥に左遷され、延喜元年2月下旬に太宰府に到着してから延喜3年2月25日に亡くなるまで約2年間滞在しました。
古代には大宰府政庁から南へと朱雀大路と呼ばれる大きな道が伸びていましたが、その道沿いに榎社は位置しており、官人が呼んだ和歌などから大宰府に勤めた高官の屋敷が周辺にあった様子がうかがえます。
 また、周辺からは大宰府では長官である大宰帥しか身につけられなかった革帯を飾る白玉帯も見つかっており、この一帯に帥=大伴旅人の邸宅があったのではないかと考える物証ともなっています。
 
大伴旅人が大宰府で詠んだ歌に「わが岡に」の言葉が数多く登場することから、旅人の邸宅近くには岡(丘陵)があったようです。
 
わがに さ男鹿来鳴く 初萩の 花嬬問ひに 来鳴くさ男鹿   巻八(一五四一)
 
我がの 秋萩の花 風をいたみ 散るべくなりぬ 見む人もがも 巻八(一五四二)
 
我がに 盛りに咲ける 梅の花 残れる雪を まがへつるかも  巻八(一六四〇)
 


 ご紹介した3ヶ所はそれぞれにロマンがあり、麗しい梅花の宴が開かれたであろう情景が思い浮かぶ場所でもあります。太宰府へお越しいただいた際には、ぜひそれぞれの場所を巡っていただき、想いを馳せて頂ければと思います。


市内の万葉歌碑ご紹介
 日本遺産『古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~』に認定された太宰府市には、いにしえの歌人達が詠んだ歌を記した万葉歌碑が数多くあります。大宰府政庁跡周辺には6基、太宰府市全体では40基以上あり、大伴旅人が詠んだ歌は11基あります。これらの歌碑を巡りながら散策してみてはいかがでしょうか。