協会からのお知らせ

(公財)古都大宰府保存協会から、催事や活動の様子などをお伝えします。

2021年11月

2021年 11月26日
大宰府政庁跡に立つ三基の石碑
 古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~

 大宰府政庁跡を訪れると中央にひときわ目立つ3基の石碑が目に入ります。
 これらの石碑は今から約100年~150年前に大宰府跡の保護を願って建立されたものです。
 古代において地方最大の役所「大宰府」が置かれた政庁跡でしたが、機能が終焉(しゅうえん)した中世以降は荒廃が進みました。
 その後、近世・江戸時代以降になると礎石が抜き取られ、土地は田畑へ転用されて耕作地になるなど、さらに荒廃していきました。

 そのような中、明治4(1871)年、明治13(1880)年、大正3(1914)年と相次いで政庁跡に「大宰府」を顕彰する石碑が建立されました。

向かって左側  太宰府址碑(だざいふあとひ)  明治13(1880)年 建立
向かって中央  都督府古趾碑(ととくふこしひ) 明治4(1871)年  建立
向かって右側  太宰府碑(だざいふひ)       大正3(1914)年  建立

 地元の人々による「大宰府」保護への強い願いと深い想いの顕れであるこれら3基の石碑についてご紹介いたします。



太宰府址碑 明治13(1880)年8月建立

 刻まれている文章(碑文)は、黒田藩の学問所修猷館(しゅうゆうかん)の館長であった竹田定簡(たけださだひろ)の案を基に、福岡県令を務めていた渡辺清(わたなべきよし)が作成したと考えられています。

 碑文には、大宰府の由来をはじめ、時代と共に移り変わり行く中で今は礎石(そせき)を残すのみとなった大宰府跡が、廃墟となり跡形もなく消え去ってしまう事を嘆き、御笠郡(みかさぐん)の人々がこの碑を建立したことが記されています。
 この500字程に及ぶ碑文の文字を書いたのは、明治時代を代表する書家として知られる日下部鳴鶴(くさかべめいかく)です。彦根藩に生まれた鳴鶴は官僚として活躍しますが、40歳の時に官を辞して、書の道に生きました。石碑にある東作(とうさく)は本名です。
 また、碑文の上に大きく篆書体(てんしょたい)で書かれた「太宰府址碑」の字は有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の筆とされます。親王は明治新政府の総裁を務めるなど活躍した人物ですが、西南戦争の指揮のため九州を訪れたり、大宰帥(だざいのそち)や福岡県令を務めるなど福岡と縁深い人物でもありました。

〔太宰府址碑 碑文〕 (PDFファイル 120KB)

↑ 碑文をご覧になりたい方はこちらをクリック下さい



都督府古趾碑 明治4(1871)年7月建立

 正殿跡にある3基の石碑の中で最も古いものです。
 石碑を建立した高原善七郎は御笠郡乙金村(おとがなむら)〔現在の福岡県大野城市〕で代々庄屋を務める家に生まれました。
 33歳で大宰府跡が所在する観世音寺村(かんぜおんじむら)庄屋を務めるなど活躍すると共に、地域に残る文化財の調査や保存、顕彰(けんしょう)などにも努めました。

 81歳で政務を引退した善七郎が最後に取り組んだのが政庁跡への石碑建立でした。歴史ある大宰府跡が荒れ果て、人々に忘れ去られていくことに心を痛めていた善七郎は、明治3(1870)年に長年の悲願であった石碑建立を願い出ました。明治4(1871)年に無事建立され、その様子を見届けるかのように建立の翌年(1872年)に善七郎は永眠しました。
 石碑にある「都督府(ととくふ)」は古代中国の役所の名称で、菅原道真(すがわらのみちざね)公が漢詩「不出門(ふしゅつもん)」で大宰府を中国風に「都府(とふ)の楼には・・・」と表現したことに由来しており、現在も大宰府政庁跡は都府楼跡(とふろうあと)と呼ばれ親しまれています。

〔参考:高原善七郎の石碑建立の願書控〕(PDFファイル 56KB)
↑ 碑文をご覧になりたい方はこちらをクリック下さい




太宰府碑 大正3(1914)年8月建立

 政庁跡の3基の中で建立が最も新しいものですが、石碑の文章が作られたのは最も古いものです。
 碑文を作ったのは儒学者・医者であり福岡藩西学問所・甘棠館(かんとうかん)の学長を務めた亀井南冥(かめいなんめい)です。
 南冥は寛政元(1789)年11月に文章を完成させましたが、碑文の一部「當今封建國邑(まさにいまこくゆうをほうけんし) 名器非古(めいきいにしえにあらず)」が体制批判であるとされ、石碑の建立は中止されてしまいます。

 この時期は福岡藩内で学閥(がくばつ)争いがあり、やがて幕府の命令により朱子学以外の学問が禁止されると、南冥は職を解かれ謹慎のとなり、文化11(1814)年失意のうちに亡くなります。
 その後、南冥の志を受け継いだ門下生などの尽力により、南冥没後100年の大正3(1914)年に石碑が建立されました。

〔太宰府碑 碑文〕(PDFファイル 151KB)
↑ 碑文をご覧になりたい方はこちらをクリック下さい 


■古絵葉書から見る政庁跡の石碑

戦前発行の絵葉書に写された政庁跡や石碑の風景をどうぞご覧ください。


絵葉書 その1 PDFファイル 290KB
↑ ご覧になりたい方はこちらをクリックください

絵葉書 その2 PDFファイル 274KB
↑ ご覧になりたい方はこちらをクリックください

絵葉書 その3 PDFファイル 304KB
↑ ご覧になりたい方はこちらをクリックください


☂ 雨天時は大宰府展示館へどうぞ

大宰府展示館では太宰府拓友会の皆様に採取いただいた三基の石碑の拓本を展示しております。
雨天時など、現地での石碑見学が難しい場合はぜひ大宰府展示館をご利用ください。


〔参考文献〕
・太宰府市文化ふれあい館『拓本でたどる保存の心』2006年
・太宰府市文化ふれあい館『碑帖辿歴 拓本で紡ぐ史跡のかたち』2019年

2021年 11月12日
古代の大宰府を眺めてみよう「大宰府条坊イメージジオラマ」公開中です
■はじめに
 太宰府市の中央に位置する大宰府政庁跡には、7世紀後半から奈良・平安時代にかけて九州の政治・文化の中心となり、東アジアの国々との外交の窓口、軍事防衛の拠点として重要な役割を担った役所が置かれていました。
 この大宰府政庁跡に隣接する大宰府展示館は、昭和55年の開館以来、大宰府史跡の発掘調査で見つかった貴重な遺構を保存公開し、出土遺物や模型などで大宰府の歴史と文化をご紹介してきました。近年では、元号「令和」の典拠となった「梅花の宴」を博多人形で再現したジオラマを展示していることから、全国各地から多くのお客様にお越しいただいております。
 このたび、古代の大宰府をイメージしていただける「大宰府条坊 イメージジオラマ」を新たな展示資料として公開する運びとなりました。ぜひ一度、大宰府展示館へ足をお運びくださいませ。


 
■資料について
 今回新たに展示します資料は「大宰府条坊イメージジオラマ」です。
 古代の大宰府には約2km四方の街並みが広がり、内部は条坊制(じょうぼうせい)と呼ばれる奈良・平城京のような碁盤の目状の区画がされていました。
 大宰府の条坊についてはこれまで研究が重ねられており、近年は太宰府市教育委員会文化財課・井上信正氏が提唱する南北22条・東12坊・西8坊、1区画が90m四方の想定案が注目されています。
 本資料では、条坊の街並みのうち朱雀大路を中心に客館や南館、般若寺などの主要施設を含む、南北は8条から22条、東西は朱雀大路を中心に各6坊ずつの範囲を制作しています。

■資料詳細
 平面部分:750分の1スケール
 建物の高さ・地形の高さ:実際の縮尺で制作すると視認し辛い為、それぞれ視認しやすい任意の比率に高めて制作されています。
 サイズ:150cm×190cm


■古代大宰府の街並みについて
 古代大宰府の街並みは、中国・唐の長安にならった平城京や平安京と同じく、北の中央に中心となる施設・政庁(せいちょう)が置かれました。
 この政庁を起点として、南へ延びる朱雀大路 (すざくおおじ)を中心に碁盤の目のように道路が走り、街並みを区画する条坊制(じょうぼうせい)が広がっていたようです。
 条坊制に基づいて大宰府の街並みが造られていることは、大宰府が自然発生した都市ではなく、国家が主導して建設した都市であることを意味しています。当時の中国を中心とした東アジアの枠組みの中で、国際的な役割を担う都市として位置づけられていたようです。
 古代大宰府の街並みについては、大宰府史跡の発掘調査が進むなかで様々な復元案が検討されてきました。
 条坊制では東西を結ぶ列を条(じょう)、南北を結ぶ列を坊(ぼう)と呼びますが、現在では22条、朱雀大路を中心に東側に12坊、西側に8坊、それぞれの一区画が90m四方の街並み復元案が提示されています。


※赤枠部分が今回のジオラマで制作された範囲となります。
(図:太宰府市教育委員会文化財課 井上信正氏作成のものに一部加筆)


■ジオラマのイメージした時代8世紀後半ごろの大宰府について(赤枠内がおおよその時期)



■ジオラマ内の各所解説

朱雀大路(すざくおおじ)
 古代日本の都において、中央を南北に通じる主要道路を朱雀大路と呼びますが、大宰府の街並みにも大路が存在していました。大路は8世紀初頭頃に工事が行われたと考えられており、大宰府政庁の南側に位置する朱雀門からまっすぐ南へと延びています。
 大路は奈良・平城京の朱雀大路の半分の規模で設計されたようで、幅は36mほどありました。現在の高速道路10車線分にあたる幅ですが、8世紀後半から9世紀にかけて30mほどに、11世紀には15mほどになった箇所もあるなど、時代と共に大路の役割が変化するなかで道幅も縮小していったようです。

客館(きゃくかん)
 客館とは、外国からの使節たちが滞在するための施設です。古代における大宰府は、諸外国とのやりとりを行う窓口として重要な役割を担っていたため、政庁で外交儀礼などが行われました。
 海を渡ってやってきた外国の使節たちは、博多湾沿いの筑紫館(鴻臚館)にまず滞在し、その後、官道を進み、水城の西門を通り、大宰府の街並みへ南側から入り、客館に滞在しました。客館跡では青銅で出来たお鋺や皿、スプーン、貴重な陶磁器などが見つかっており、豪華なおもてなしが行われていたようです。

南館(なんかん)
 大宰府の街並みの中央を南北に貫く朱雀大路沿いには、大宰府で働く身分の高い役人(高官)の館が存在していたようです。901年、都から大宰府へ流されてきた菅原道真公は高官用の館に滞在しましたが、手入れも悪く、大変荒れ果てた様子だったようです。道真公が滞在した館は「府の南館」とも呼ばれ、道真公の死去後には浄妙尼(じょうみょうに)を祀る祠が建立され、現在は榎社が鎮座しています。
 また、榎社の周辺からは平安時代に公卿(くぎょう)(上流貴族)だけが着用を許された白玉帯(はくぎょくたい)の飾り(正方形をした巡方(じゅんぽう))も見つかっていることから、朱雀大路沿いにおける高官たちの活動がうかがえます。

般若寺(はんにゃじ)
 筑紫大宰帥(だざいのそち)であった蘇我日向(そがのひむか)が孝徳天皇(こうとくてんのう)の病気平癒を祈り、654年に建立したといわれる古代の寺院です。太宰府市朱雀(すざく)二丁目には般若寺という字名があり、現在も住宅地の一角に塔跡の一部と心礎(しんそ)(塔の中心柱の土台となる石)が残っています。
 般若寺は天皇ゆかりの寺院ですが不明な点も多く、筑紫野市にあった塔原廃寺(とうのはるはいじ)が奈良時代に入り大宰府へ移転したという説もありますが、諸説あり未だ確定はされていません。

■制作者 森野 晴洋(もりの はるひろ)様 広島県在住。
 歴史に関心を持っておられたが、大学時代を福岡で過ごしたなかで古代大宰府についても関心を持ち、古都大宰府をイメージできるようなものがあれば太宰府市を訪れる方々もより関心を持っていただけるのではと思案。
 そこで模型作りの特技を活かし、奈良市役所の平城京復元模型、京都市平安京創生館の平安京復元模型のような一目で往時の様子が分かるジオラマ制作を考え、古都大宰府保存協会にご相談いただいたのが制作の発端でした。
 それから約2年の歳月をかけて、当会からも参考資料などを提供し協議を重ねながら、社会貢献の一環としてボランティアで制作いただいた作品です。